たね子の憂鬱
本文約3,600字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
実業家の結婚披露式への招待を受けた主婦のたね子は、慣れない洋食の作法に強い不安を覚える。夫から手ほどきを受け、当日の晩餐会に臨むものの、失敗への恐怖と緊張から心身を消耗させていく。式を終えてもなお消えない緊張感と、自身の精神の変調を予感させる夢に悩まされる日常を、細やかな心理描写で描く。
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たね子は夫の先輩に当るある実業家の令嬢の結婚披露式の通知を貰った時、ちょうど勤め先へ出かかった夫にこう熱心に話しかけた。
「あたしも出なければ悪いでしょうか?」
「それは悪いさ。」
夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉に返事をした――のに近いものだった。
「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」
「帝国ホテル――か?」
「あら、御存知なかったの?」
「うん、……おい、チョッキ!」
たね子は急いでチョッキをとり上げ、もう一度この披露式の話をし出した。
「帝国ホテルじゃ洋食でしょう?」
「当り前なことを言っている。」
「それだからあたしは困ってしまう。」
「なぜ?」
「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの。」
「誰でも教わったり何かするものか!……」
夫は上着をひっかけるが早いか、無造作に春の中折帽をかぶった。それからちょっと箪笥の上の披露式の通知に目を通し「何だ、四月の十六日じゃないか?」と言った。
「そりゃ十六日だって十七日だって……」
「だからさ、まだ三日もある。そのうちに稽古をしろと言うんだ。」
「じゃあなた、あしたの日曜にでもきっとどこかへつれて行って下さる!」
しかし夫は何とも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子は夫を見送りながら、ちょっと憂鬱にならずにはいられなかった。それは彼女の体の具合も手伝っていたことは確かだった。子供のない彼女はひとりになると、長火鉢の前の新聞をとり上げ、何かそう云う記事はないかと一々欄外へも目を通した。が、「今日の献立て」はあっても、洋食の食べかたなどと云うものはなかった。洋食の食べかたなどと云うものは?――彼女はふと女学校の教科書にそんなことも書いてあったように感じ、早速用箪笥の抽斗から古い家政読本を二冊出した。それ等の本はいつの間にか手ずれの痕さえ煤けていた。のみならずまた争われない過去の匂を放っていた。たね子は細い膝の上にそれ等の本を開いたまま、どう云う小説を読む時よりも一生懸命に目次を辿って行った。