玩具
本文約4,300字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
金銭に窮し生家の蔵から金品を盗むことを繰り返す男が、自己の幼児期の記憶を蘇らせて執筆しようとする心境と、赤児の頃から三歳までの断片的な追憶を綴る。周囲の大人には理解されないまま、一人で狂気と正気を往復する孤独な内面や、死の光景を目撃した幼い日の記憶などを記述し、物語という形式をとりつつも、虚実の境界を揺さぶりながら作者自身の偽りない姿勢を模索する未完の自叙伝的小説である。
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どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮しているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある。そんな場合になってしまうと、私は糸の切れた紙凧のようにふわふわ生家へ吹きもどされる。普段着のまま帽子もかぶらず東京から二百里はなれた生家の玄関へ懐手して静かにはいるのである。両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすがたを見つめているうちに、私には面皰もあり、足もあり、幽霊でないということが判って、父は憤怒の鬼と化し、母は泣き伏す。もとより私は、東京を離れた瞬間から、死んだふりをしているのである。どのような悪罵を父から受けても、どのような哀訴を母から受けても、私はただ不可解な微笑でもって応ずるだけなのである。針の筵に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。
ことしの夏も、同じことであった。私には三百円、かけねなしには二百七十五円、それだけが必要であったのである。私は貧乏が嫌いなのである。生きている限りは、ひとに御馳走をし、伊達な着物を着ていたいのである。生家には五十円と現金がない。それも知っている。けれども私は生家の土蔵の奥隅になお二三十個のたからもののあることをも知っている。私はそれを盗むのである。私は既に三度、盗みを繰り返し、ことしの夏で四度目である。
ここまでの文章には私はゆるがぬ自負を持つ。困ったのは、ここからの私の姿勢である。