火の鳥
本文約37,500字 ・ 読了時間 約75分
あらすじ(AIが作成しました)
昭和五年の東京を舞台に、古着屋で羽織を買い求めた須々木乙彦は、帝国ホテルの一室で女優となる以前の高野幸代と出会う。運命に翻弄される二人は共に死へと向かい、その後に残された者たちがそれぞれの人生と向き合う姿が描かれる。社会の厳しさと、それに対峙する人々の葛藤や情愛を通じて、人間の業と避けられぬ宿命を綴る長編小説である。
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序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。
昔の話である。須々木乙彦は古着屋へはひつて、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言つた。
「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけてゐた。
「まだセルでも、をかしくないか。」
「もつともつとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、をかしいことはございませぬ。」
「よし。見せて呉れ。」
「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着てゐた。
「さうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさつと羽織つて、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひよろ長い大学生であつた。
「セルのお羽織なら、かへつて少し短かめのはうが。」
「粋か。いくらだ。」
羽織を買つた。これで全部、身仕度は出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまへに立つてゐた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立つてゐた。ドアを押して中へはひり、
「部屋を貸して呉れないか。」
「は、お泊りで?」
「さうだ。」
浴室附のシングルベツドの部屋を二晩借りることにきめた。持ちものは、籐のステツキ一本である。部屋へ通された。はひるとすぐ、窓をあけた。裏庭である。火葬場の煙突のやうな大きい煙突が立つてゐた。曇天である。省線のガードが見える。
給仕人に背を向けて窓のそとを眺めたまま、
「コーヒーと、それから、――」言ひかけて、しばらくだまつてゐた。くるつと給仕人のはうへ向き直り、
「まあ、いい。外へ出て、たべる。」
「あ、君。」乙彦は、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」十円紙幣を一枚とり出して、握らせた。
「は?」四十歳ちかいボーイは、すこし猫背で、気品があつた。
乙彦は笑つて、「お世話になる。」
「どうも。」給仕人は、その面のやうな端正の顔に、ちらとあいそ笑ひを浮べて、お辞儀をした。
そのまま、乙彦は外へ出た。ステツキを振つて日比谷のはうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かつた。はき馴れぬフエルト草履で、歩きにくいやうに見えた。日比谷。すきやばし、尾張町。