非凡人と凡人の遺書
本文約1,300字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
人間だけが行う遺言という行為について考察し、その在り方を論じる。毎年遺言状を書き換える用意周到な人物の例や、悟りの境地を示す僧侶の遺偈を引き合いに出し、形式化された遺言の難しさを説く。先祖が家憲を定めることの弊害を指摘し、凡人としての生き方や、死に際しての家族への責任の果たし方について独自の考えを綴る。死を前にして取り繕うのではなく、平常心でいかに向き合うべきかを冷静に分析する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
牛や魚は死ぬ時遺言しない。鳥や松の木も死ぬ時遺言しない。遺言するのは人間だけである。死ぬ時自分以外に他あるを顧みて其処に何か責任上の一言を遺して置く。これ人間が万物の霊長たる由縁であらう。
毎年正月元日に筆を改めて遺言状を書き直すといふ用意周到の人が僕の知つてる範囲で二人ある。然も二人共可成り永生きの方なので何通書き直したか判らぬ。年々そう書き直す必要があるだらうかと訊いたら一人は『葬儀車だつて年々進化するだらう?』一人は『年々遺言状の思想が旧くなつて行くから』といつた。二人共遺言状を書く真剣さを用ゐて自分の魂をあらため験るのだつた。中々ずるい。
禅の方で遺言の詩を遺偈といふのだがこれには大概型がある。生涯の間、一秒間も三昧から外れた事も無く一生涯も一爪弾きの間も同じだつた、と自分の悟境を述べたものがその一である。徒に眠り徒に食ひ戯れの世の中を戯れに終つたと自嘲めく口調で述べたものがその一である。自嘲めくとは雖もやはりその裏に悟の心境を誇示してゐる事は勿論である。もう一つは死の世界に入つて行く態度を示したものである。地獄も天堂も総に踏み破り去らんといふやうな調子のものである。
右からみるとずつと離れて、全く凡夫の心に立帰つて遺偈を示した僧もある。近世では釈宗演氏なぞがそうである。『死に度く無い/\』といつて死んで行く臨終の仕方である。これも幾多の前例はあるが可成り洒脱のものとみられて居る。
桃水和尚は凡夫に如同する事に於て可成り垢抜けしたところまで行つたがそれでも臨終に鷹峯風清月白とか何とかいふ遺偈を遺し片鱗を露してる。
遺言といふとすぐ芭蕉が門下に遺言の句を訊かれて平常の句みな遺言の句にあらざるなしといつたのを思ひ出すが前掲数項の遺言の仕方やこの詩人の遺言に対する態度やはあまり立優り過ぎ模範的過ぎてわれ等にはピッタリ来ない。