TRENDIA CLASSIC

天狗

太宰治

1 / 5

暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。

市中は物のにほひや夏の月    凡兆  いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。

猿簑は、凡兆のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿簑に於いては凡兆の佳句が二つ三つ在るという事だけは、たしかなようである。「市中は物のにほひや夏の月」これくらいの佳句を一生のうちに三つも作ったら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。佳句というものは少い。こころみに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずいぶん多い。

市中は物のにほひや夏の月  芭蕉がそれにつづけて、

あつしあつしと門々の声  これが既に、へんである。所謂、つき過ぎている。前句の説明に堕していて、くどい。蛇足的な説明である。たとえば、こんなものだ。

古池や蛙とびこむ水の音

音の聞えてなほ静かなり

これ程ひどくもないけれども、とにかく蛇足的註釈に過ぎないという点では同罪である。御師匠も、まずい附けかたをしたものだ。つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教えている癖に御師匠自身も時には、こんな大失敗をやらかす。附きも附いたり、べた附きだ。凡兆の名句に、師匠が歴然と敗北している。手も足も出ないという情況だ。あつしあつしと門々の声。前句で既に、わかり切っている事だ。芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、

二番草取りも果さず穂に出て  去来だ。苦笑を禁じ得ない。さぞや苦労をして作り出した句であろう。去来は真面目な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇智にあこがれるのである。野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇智などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。

太宰治の他の作品