TRENDIA CLASSIC

美しき死の岸に

原民喜

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何かうっとりさせるような生温かい底に不思議に冷気を含んだ空気が、彼の頬に触れては動いてゆくようだった。図書館の窓からこちらへ流れてくる気流なのだが、凝と頬をその風にあてていると、魂は魅せられたように彼は何を考えるともなく思い耽っているのだった。一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、一秒、一秒のひそやかな空気がむこうから流れてくる。世界は澄みきっているのではあるまいか。それにしても、この澄みきった時刻がこんなにかなしく心に泌みるのはどうしたわけなのだろう……。

ふと、視線を窓の外の家屋の屋根にとめると、彼にはこの街から少し離れたところにある自分の家の姿がすぐ眼に浮んできた。その家のなかでは容態のおもわしくない妻が今も寝床にいる。妻も今の今、何かうっとりと魅せられた世界のなかに呼吸づいているのだろうか。容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活の慣わしから、澄みきった世界のなかに呼吸づくことも身につけているようだった。だが、荒々しいものや、暴れ狂うものは、日毎その家の塀の外まで押し寄せていた。塀の内の小さな庭には、小さな防空壕のまわりに繁るままに繁った雑草や、朱く色づいた酸漿や、萩の枝についた小粒の花が、――それはその年も季節があって夏の終ろうとすることを示していたが、――ひっそりと内側の世界のように静まっていた。それから、障子の内側には妻の病床をとりかこんで、見なれた調度や、小さな装飾品が、病人の神経を鎮めるような表情をもって静かに呼吸づいているのだ。――そうして、妻が病床にいるということだけが、現在彼の生きている世界のなかに、とにかく拠りどころを与えているようだった。

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