TRENDIA CLASSIC

猿面冠者

太宰治

1 / 19

どんな小説を讀ませても、はじめの二三行をはしり讀みしたばかりで、もうその小説の樂屋裏を見拔いてしまつたかのやうに、鼻で笑つて卷を閉ぢる傲岸不遜の男がゐた。ここに露西亞の詩人の言葉がある。「そもさん何者。されば、わづかにまねごと師。氣にするがものもない幽靈か。ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。他人の癖の飜案か。はやり言葉の辭書なのか。いやさて、もぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。」いづれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを讀みすぎたと思つて悔いてゐる。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考へるのださうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでゐる。酒に醉ひしれて、ほとんど我をうしなつてゐるやうに見えるときでも、もし誰かに毆られたなら、落ちついて呟く。「あなた、後悔しないやうに。」ムイシユキン公爵の言葉である。戀を失つたときには、どう言ふであらう。そのときには、口に出しては言はぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまつて居れば名を呼ぶし、近寄つて行けば逃げ去るのだ。」これはメリメのつつましい述懷ではなかつたか。夜、寢床にもぐつてから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくかう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、藝術家のコンフイテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしてゐるときには、どうであらう。口をついて出るといふのである、“Nevermore”といふ獨白が。

太宰治の他の作品