一
中村武羅夫君
これは君の「随筆流行の事」に対する答である。僕は暫く君と共に天下の文芸を論じなかつた為めか、君の文を読んだ時に一撃を加へたい欲望を感じた。乃ち一月ばかり遅れたものの、聊か君の論陣へ返し矢を飛ばせる所以である。どうかふだんの君のやうに、怒髪を天に朝せしめると同時に、内心は君の放つた矢は確かに手答へのあつたことを満足に思つてくれ給へ。
君は「凡そ芸術と云ふ芸術で、清閑の所産でないものはない筈だ」と云つてゐる。又「芸術などといふものはその本来の性質からして、清閑の所産であるべきものだとは思ふ」と云つてゐる。僕も亦君の駁した文の中に、「随筆は清閑の所産である。少くとも僅かに清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である」と云つた。これは勿論随筆以外に清閑は入らんと云つた訣ではない。「僅かに清閑の所産を誇つてゐた」と云ふのも事実上の問題に及んだだけである。まことに清閑は芸術の鑑賞並びにその創作の上には必要条件の一つに数へられなければならぬ。少くとも好都合の条件の一つに数へられなければならぬ筈である。この点は僕も君の説に少しも異議を述べる必要はない。同時に又君も僕の説に異議を述べる必要はない筈である。
次に中村君はかう云つてゐる。「芥川氏は清閑は金の所産だと言ふ。が(中略)金のあるなしにかかはらず、現在のやうな社会的環境の中では清閑なんか得られないのである。金があればあるで忙しからう。金がなければないで忙しからう。清閑を得られる得られないは、金の有無よりも、寧ろ各自の心境の問題だと思ふ。」すると清閑なんか得られないと云つたのは必しも君の説の全部ではない。心境は兎に角金以外に多少の清閑を与へるのである。これも亦僕には異存はない。僕は君の駁した文の中にも、「清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越しなければならない」とちやんと断つてある筈である。