二黒の巳
本文約15,400字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
大森にあるお茶屋「桔梗」の女主人お糸と、そこに通う客である「私」や種田、松田らとの交流を描く。仕事で疲れた男たちが休息を求めて集うこの場所で、彼らはお糸の細やかな配慮に心地よさを覚え、店のお酌であるおもちゃを交えて親しく過ごす。やがて歳月が流れ、男たちの生活環境や社会的な立場が変化していく中でも、お糸との縁は途切れることなく、彼らは折に触れて店を訪れ、互いの身の上や抱える孤独について語り合う。
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種田君と一しよに梅見に行つて大森から歩いて来て、疲れた体を休ませたのが「桔梗」と云ふお茶屋であつた。
「遊ばせてくれますか、」と種田君はいつもの間延な調子で云つたあとで、「エヘツヘヘ」と可笑しくもないのに笑ふと云つた風に軽く笑つた。私は洋服であつたが、種田君は其頃紳士仲間に流行つた黒の繻子目のマントを着て、舶来の鼠の中折帽を被つて居た。
「いらつしやいまし、」と云つて上るとすぐ階子段を自分から先に立つて、二階へ案内したのが、お糸さんであつた。色の浅黒い、中高な、右の頬の黒子が目にたつ、お糸さんは佳い女の方ではなかつた。すぐれて愛想のよいと云ふ程でもなかつた。それでも私達は其夜からお糸さんが好きになつた。月に一度や二度は屹度遊びに行つた。種田君はもう四十を越して居た。私だつて無責任の学生ではなかつた。宿場女郎のさびれた色香にひかされて通ふ身の上でもなかつた。仕事で疲れた頭を休ませに、少し風の変つた処へ遊び場をさがしにあるいてた私達には、お糸さんの内が最も適当であつた。品川に気のいいお茶屋があると云つては、いろいろの友達にも紹介した。松田君も行つた。宮川君も行つた。骨牌の好きな、そしていつでも負ける草香君も行つた。お糸さんはすぐ是等の人人にもお気に入りになつた。「桔棟」へ行つて遊ばうか。二三人種田君の銀座の事務所に集まるとすぐ相談は決まるのであつた。日の暮れを待たずに行くこともあつた。今夜の費用を出さうと云つては奢り花などを引いた。料理代を賭て碁をうつこともあつた。お糸さんの内では別に芸者家をも開いて居た。おもちやと云ふお酌がまた私達のひいきであつた。其頃は十四であつたかと思ふ。円顔のむつちりとした可愛らしい子で、額付が今の菊五郎に似て居たので、おとはやおとはやと呼んで居た。おとはやと云はれると嬉しがつてよく私達の云ふ事をきいて、骨牌のお掃除や碁石の出し入れをしてくれた。