青草
本文約6,600字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
酒造業を営む家庭で育った杉兄弟と、支配人の娘・歌津子。幼少期、兄は不慮の事故で片目を負傷し、以後、黒眼鏡をかけて暮らすようになる。成長するにつれ、兄への敬慕と疎外感に揺れる弟は、歌津子との距離感に苦悩する。やがて成人した兄は、自らの視覚に関わる呪縛を解こうとするかのように、蜘蛛を用いた遺伝の研究に没頭する。三人の複雑な心理と、兄の研究を通じて描かれる宿命的な関係の行方を静かに描き出す。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
杉兄弟は支配人の娘の歌津子とほとんど同じ一つの揺籃の中で育った。彼らが歌津子の母親の乳房を見て甘い微な戦慄を覚えたこともある。歌津子が彼らの父の大きな手で真紅な帽子を被せられて、誇らしさとよろこびに夢中になったこともある。それから、細い色糸が、彼ら三人の手から手へ、唄に合せて、幾度、美しい幻影を織ったことだろう。弟の手がそっとうしろから彼女の清い眉の上を蔽うたこともある。兄が胴を持って彼女のからだを色紙の風車を廻すように、日なたできりきりと振り廻したこともある。
そうして、ある日、彼らの明るい淀みのない夢の世界に、決定的な出来事が起ったのであった。
その日、弟が鬼にあたって、兄と彼女とが手を携えて遁げた、弟は納屋の蔭に退いて、その板塀に凭れながら、蒼く澄んだ空へ抜けるほどの声で一から五十まで数を算え初めた。その間に小さな駈落者らは、大忙ぎで裏庭の雑草を踏み越えて、そこに立っている無花果の樹に攀じ登った。
五十が切れると鬼が納屋の蔭から駈けだしてきた。彼は微風に光り動いている雑草の上に眼をやって、しばらくぼんやりと立ちつくしていた。
ふと青い無花果が飛んできて彼の足もとに落ちた。彼が見上げると、向うの樹の上からどっと歓声が起った。兄と彼女とが同じ枝に止って、真白な口ばたに無花果の実の汁をつけて、笑っているのだった。弟はその下へ駈けよった。
「おいで。無花果進上。」と兄が言った。
「そうよ。無花果進上。」と彼女も言った。
弟は樹の幹に手をかけて振り仰いで、彼らを睨まえた。その時、弟は兄の頬に、何かが止っているのに気がついた。葉越しの太陽の光りが、彼らの白い皮膚の上に、もろもろとした斑点を写しているので見分けにくいが、じいっと眸を凝らすと、大きな蜘蛛が、脚をいっぱいに伸して、奇怪な文身か何かのように、兄の頬にへばりついてるではないか。弟は二三歩あとへよって、無言のまま蒼くなって兄の顔を指した。