TRENDIA CLASSIC

漂泊

石川啄木

1 / 17

曇つた日だ。

立待岬から汐首の岬まで、諸手を擴げて海を抱いた七里の砂濱には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北國の強い空氣に漲つて居る。空一面に澁い顏を開いて、遙かに遙かに地球の表面を壓して居る灰色の雲の下には、壓せれれてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動搖の浪をあげて居る。右も左も見る限り、鹽を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此處は拾ふべき貝殼のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡む赤の裳の艷立つ姿は見る由もない。夜半の滿潮に打上げられた海藻の、重く濕つた死骸が處々に散らばつて、さも力無げに逶つて居る許り。

時は今五月の半ば。五月といへば、此處北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃櫻ひと時に、花を被かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下行く子も、おしなべて老も若きも、花の香に醉ひ、醉心地おぼえぬは無いといふ、天が下の樂しい月と相場が定つて居るのに、さりとは恁うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の臺までも搖がしさうな響きのみが、絶間もなく破つて居る。函館に來て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏濱とはいひ乍ら、大森濱の人氣無さの恁許りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪と糧を爭ふ十萬の市民の、我を忘れた血聲の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此處までは傳はつて來ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる聲に呑まれてゆく人の聲の果敢なさを思へば。

石川啄木の他の作品