漂泊
本文約12,800字 ・ 読了時間 約26分
あらすじ(AIが作成しました)
五月の函館、大森浜の荒磯に三人の男が集う。忠志は砂の上に自分の名を書き続け、楠野は海を眺め、肇は仰向けに空を見つめる。都会の喧騒から離れた浜辺で、彼らは汽船の行き先や将来の生活についてとりとめもない会話を交わす。やがて忠志が去り、夜の酒宴を約束した楠野も帰路につく。一人浜に残された肇は、波の音と磯の香に包まれ、寂寥感と解放感の中で涙ぐみながら、重く垂れ込める灰色の雲の下で静かに佇む。
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一
曇つた日だ。
立待岬から汐首の岬まで、諸手を擴げて海を抱いた七里の砂濱には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北國の強い空氣に漲つて居る。空一面に澁い顏を開いて、遙かに遙かに地球の表面を壓して居る灰色の雲の下には、壓せれれてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動搖の浪をあげて居る。右も左も見る限り、鹽を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此處は拾ふべき貝殼のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡む赤の裳の艷立つ姿は見る由もない。夜半の滿潮に打上げられた海藻の、重く濕つた死骸が處々に散らばつて、さも力無げに逶つて居る許り。
時は今五月の半ば。五月といへば、此處北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃櫻ひと時に、花を被かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下行く子も、おしなべて老も若きも、花の香に醉ひ、醉心地おぼえぬは無いといふ、天が下の樂しい月と相場が定つて居るのに、さりとは恁うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の臺までも搖がしさうな響きのみが、絶間もなく破つて居る。函館に來て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏濱とはいひ乍ら、大森濱の人氣無さの恁許りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪と糧を爭ふ十萬の市民の、我を忘れた血聲の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此處までは傳はつて來ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる聲に呑まれてゆく人の聲の果敢なさを思へば。