天鵞絨
本文約33,400字 ・ 読了時間 約67分
あらすじ(AIが作成しました)
村中の人気者である理髪師の源助が、四年ぶりに郷里の村へ突然現れる。その源助を慕うお八重とお定は、彼に連れられ初めて東京を訪れる。上野駅の喧騒や都会の賑わいに圧倒されながら、二人は源助の住まいや本郷界隈での滞在を経て、見聞を広げる。やがて帰郷の途に就いた二人は、列車の窓から流れる暗闇の中、東京での短い体験と郷里の生活を胸に、静かに自身の心象風景を振り返る。
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一
理髮師の源助さんが四年振で來たといふ噂が、何か重大な事件でも起つた樣に、口から口に傳へられて、其午後のうちに村中に響き渡つた。
村といつても狹いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺れて逶と北に走つた、坦々たる其一等道路(と村人が呼ぶ)の、五六町並木の松が斷絶えて、兩側から傾き合つた茅葺勝の家並の數が、唯九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が中央程に向合つてゐて、役場の隣が作右衞門店、萬荒物から酢醤油石油莨、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛もある。箸で斷れぬ程堅い豆腐も賣る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてるけれども、毎晩點火る譯ではない。
お定がまだ少かつた頃は、此村に理髮店といふものが無かつた。村の人達が其頃、頭の始末を奈何してゐたものか、今になつて考へると、隨分不便な思をしたものであらう。それが、九歳か十歳の時、大地主の白井樣が盛岡から理髮師を一人お呼びなさるといふ噂が恰も今度源助さんが四年振で來たといふ噂の如く、異樣な驚愕を以て村中に傳つた。間もなく、とある空地に梨箱の樣な小さい家が一軒建てられて、其家が漸々壁塗を濟ませた許りの處へ、三十恰好の、背の低い、色の黒い理髮師が遣つて來た。頗るの淡白者で、上方辯の滑かな、話巧者の、何日見てもお愛想が好いところから、間もなく村中の人の氣に入つて了つた。それが即ち源助さんであつた。