萬葉集は歌集の王なり。其歌の眞摯に且つ高古なるは其特色にして、到底古今集以下の無趣味無趣向なる歌と比すべくもあらず。萬葉中の平凡なる歌といへども之を他の歌集に插めば自ら品格高くして光彩を發するを見る。しかも此集今に至りて千年、未だ曾て一人の之を崇尚する者あるを聞かず。眞淵の萬葉を推したるは卞和の玉を獻じたるに比すべきも、彼猶此玉を以て極めて瑕瑾多き者となしたるは、善く玉を知らざりしがためなり。眞淵は萬葉に善き歌と惡き歌とありといふ。歌に善きと惡きとあるは何の集か然らざらん。然るに特に萬葉に於てしかいふ者は萬葉には殊に惡歌多き事を認めたるに非るか。萬葉に於て殊に惡歌多しといふ裏面には古今、拾遺抔が比較的に善く精選せられたるを意味するに非るか。若し然らば眞淵は萬葉の惡歌を以て古今の惡歌よりも更に惡しとする者にて、余の所見と全く異なる所見を抱き居りし者なり。余は眞淵を以て萬葉を解せざる者と斷言するに躊躇せざるなり。論より證據、眞淵の家集を繙いて彼の短歌(長歌の事はこゝに言はず別に論あり)が萬葉の調に近きか古今以下の調に近きかといはゞ無論何人も古今以下の調に近き事を認めざるを得ざるべし。眞淵は口にこそ萬葉善しといへ、其實、腸には古今以下の臭味深く染み込みて終に之を洗ひ去る事能はざりしなり。只彼の歌が多くは字句の細工を斥けて、趣味ある意匠を撰ぶに傾きたるは、當時に在りて極めて卓越せる意見にして、これこそ彼が萬葉より得來りたる唯一の賜なりけめ。されど萬葉の長所はこれに止まらず。眞淵は僅に趣向の半面を見て調子の半面を見得ざりしなり。萬葉の調子の善きは如何なる凡歌といへども眞淵の歌の調子拔けたるが如きはあらず。況んや眞淵は趣向の半面すら其一部分を得たるに過ぎず。萬葉の趣向は眞淵の歌の如く變化少き者にあらざるなり。