細木香以
本文約22,100字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
細木香以は摂津国屋藤次郎の二代目として、父竜池から家業を継ぎ、文政年間に数々の豪遊や風流な交友を通じて名声を馳せた江戸の富豪である。本作は、著者が団子坂の邸宅の縁や周囲の人物への聞き書きを通じ、この人物の生涯と、彼を取り巻く文人や役者らとの華やかな交流の軌跡を綴る。当時の江戸文化の粋と、変遷する社会の中で生きる一人の市井の豪傑の姿を、史実や伝承に基づき精緻な筆致で描き出す。
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一
細木香以は津藤である。摂津国屋藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称は二代続いているのである。
わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈の如くに積み畳ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。
わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイツの本を読むことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云うと同じ心持で、そう云う愛憎をしたのである。
春水の人情本には、デウス・エクス・マキナアとして、所々に津藤さんと云う人物が出る。情知で金持で、相愛する二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦の千藤である。千葉の藤兵衛である。
当時小倉袴仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。
この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城河岸の檀那と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏は細木、定紋は柊であるが、店の暖簾には一文字の下に三角の鱗形を染めさせるので、一鱗堂と号し、書を作るときは竜池と署し、俳句を吟じては仙塢と云い、狂歌を詠じては桃江園また鶴の門雛亀、後に源僊と云った。