紅葉山人と一葉女史
本文約2,300字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
紅葉山人全集と一葉全集を読み、その卓越した筆致や描写力に感嘆しつつも、男女関係を骨子とする作風や材料の類似性に物足りなさを覚える心情を綴る。明治三十年前後という時代背景の影響や、露伴先生との比較を交えながら、両作家の才能を認めつつ、より深い思想や異なる心理描写があればどのような作品が遺されたかを考察する評論。両氏の文学における形式技巧と思想の在り方について自身の率直な感懐を論じる。
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今まで、紅葉山人の全集をすっかり読んだ事がなかった。
こないだ叔父の処へ行って二冊ばかり借りて来て、初めて、四つ五つとつづけて読んで居る内にフト気づいた事がある。
それは、一葉全集をよんで感じたと同じ事である。
いかにも立派な筆を持って居られた、と云う事は両方を見て等しく感じる事である。
筆をつけて居る時の苦心の名残は、つゆほどもなく、スラスラと、江戸前のパリパリの筆の運びには、感歎のほかはないのである。
よくこう筆が動いたものだ。
読んだものの、誰れでもが感じる、正直な、幾年たっても変らない感じである。
けれ共、私には、三つ一時につづけて読む事は出来ない、何となしもたれる。
どう云うわけだろう。
一葉全集を読んだ時も、そうであった。
紅葉全集をよんでもそうである。
それは、材料があんまり、同じ様だからと云う事から来るのでは有るまいか。
勿論上下、貴賤[#「貴賤」は底本では「貴餞」]、貧富の差はあっても、同じ様に男女関係を骨子としてある。
そのなりゆきを序す筆の達者さ、巧な人物の描写法、活用法に一つ一つ独立させて、異った時に読めばあきる事をしらないのである。
いかにも、上手に書かれてあると思う。
けれ共、二つ三つと、よし異った形式、事柄でも、よんで居るうちに何となしけったるくなる。
まるで違った材料をあつかったものが欲しくなる。
一葉女史の作品でもそうだと思う。
「にごりえ」から始まって「たけくらべ」に至るまで、同じ様な骨子である。
立派に活きて居る才筆である。
まことに驚くべきものである。
紅葉山人のは勿論、少しは異った材料も、あつかって居られる。
けれ共、それは割合に、作者自身あんまり重きを置いて居られないらしく見える。
紅葉山人の筆があって露伴先生の頭があったらと思う。あんまり沢山読んで居るのでもないしするから、よくわからないけれ共、露伴先生よりは、紅葉山人の方が人物の描写が、何とも云えないほど上手であられる様にも思われるし、又才筆であった。
露伴先生のは、思想がいかにも卓越した、流石は禅学を深くさぐられた先生だけあると思われる。
同じ、馳落を書かれても露伴先生のは、どっかすっきりした禅めいたところがある。