朝夕
本文約14,900字 ・ 読了時間 約30分
あらすじ(AIが作成しました)
神楽坂で小さな洋品店を営む嘉吉と、連れ添う妻のなか子は、生活の困窮から別離を話し合う。かつて店を支えた先妻の存在や、商売への適応をめぐりすれ違う二人は、埃っぽい街を歩きながら互いの孤独を再確認する。百貨店での万引き騒動や激しい衝突を経て、別れる決意を一旦保留にした二人は、再び共同生活を続けていくことを受け入れる。
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わかればなしが持ちあがるのも、すべてはゆきなりの事だと、芯から声をあげて、嘉吉もなか子もあはあはあはと笑ひあつたのだが、嘉吉の心の中には、ゆきなりとは云ひぢよう、ゆきなりの事だと云ひきれないものがあつたし、なか子の心のうちには、これからひとり者になつてゆく淋しさを愉しんでゐるふうな、そんな吻つとしたところがあつた。で、ふたりが、いまさらゝしく声をたてゝ笑ひあふのも、これでおしまひだねと云つた風に、嘉吉は久須を引き寄せて、茶を淹れながら、ま、お前は気の軽い女だから俺ほどには思ふまいが、たよりだけは屡々くれるやうにと、二つの湯飲茶碗の糸底を、猫板の上にかつん、かつんと音をさせて並べた。
「まだ、あんたはそんなことを云つてゐるのね。わかれてしまふつて云つたところで、お互ひ、よくなつてゆけば、またかうして一緒になれるンですよ。あんまり理のこまかいこと云ふもンぢやないわよ、悲しくなるぢやないの‥‥」
「ふゝん、悲しくなるか、だが、わかればなしを持ちだしたのはあんたぢやないか」
なか子は黙つてゐた。切角気持ちよく、さつきはあんなにあはあは笑へたのに一寸拍子が逆になると、嘉吉の方が弱り出してしまふので、それが、なか子には余計に歯がゆく思へる。――嘉吉はそこへ寝そべつて、いまさらゝしく四囲を眺めてゐたが、風に吹かれてゐるやうな女の顔を見ると、これが四年も連れ添つてゐた女なのかと思ひ、額に浮んでゐる小皺のやうなものにも、まるで、手擦れのした道具のやうな愛惜を感じた。
「ま、何でもいゝさ、お互ひ躯を丈夫にしてるこつたよ」
「厭ね、まだ、本当に別れてしまつたつて云ふわけぢやなし、そんなこと云ふのおかしいわよ」
「‥‥‥‥」
こんどは嘉吉の方がむつゝりと黙つてしまつて、女の心のなかに何とない余裕のあることを見てとり、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。
「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」
「‥‥‥‥」