TRENDIA CLASSIC

幸福への道

素木しづ

1 / 10

『上れますか。』

高い、こまかい階段の前に、戀人の聲が、彼女の弱い歡樂の淡絹をふりおとした。

彼女は、立止まつた、その瞬間、いま賑かな街を俥で飛んで來た、わづか十五分間の、眩惑されるやうな日のなかの、うれしさの心まどひが、彼女の心の底に常にひそんでゐる孤獨と悲哀の恐ろしさに、つゝまれてしまつた。『私の幸福を、私の弱さがさまたげやしないか。』彼女は、非常に弱かつた。そしてその足は、彼女がせまい胸を壓するやうに、脇の下にはさんでゐる所の、黒い杖でさゝへなければ、まだ若い彼女は、この光りにみちた地上を歩くことが出來なかつた。

そして、それがすべて若くして病める弱い人々のやうに、あらゆるうれしさや、よろこびの、さゝいのなかにも、淋しい恐ろしい孤獨と悲哀とを感ずるチヤンスを、見出すことを忘れさせなかつた。『私の弱さが、私の歡樂をうばひはしないか。』と。

『えゝ、』彼女は、高い階段の先を見上げた。その高い階段は、また先の方に暗くなつて、登つただけ、再び降りなければならなかつた。

彼女は、睫毛をふせた。その階段が、彼女を威壓するやうに見えたから、彼女の弱い足元がふるへて、不安とかなしみが混亂してこみ上げて來るのを感じた。けれども、それが彼女一人の時においてゞなく、戀人の呼吸と、その衣ざはりのかすかな響とを、傍に聞くことが出來たから、不安は、羞恥と淡い恐れとになつて、彼女は、上氣したやうに、頬を赤くそめてうつむいた。

彼女は、そしてその伏せた瞳のなかに、女が白い細やかな、紅の裾に卷かれた兩足を持つて、蛇のやうにすばやく駈け登つて行くのを見た。

彼は、靜かに、そして斜に階段を上り初めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]を圍繞した、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。

素木しづの他の作品