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TORENDIA

後記にかえて〔『教祖の文学』〕

本文約910字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

政治家や豪傑になろうとせず、遊吟詩人として一生を終える自らの天性と、対照的な存在である小林秀雄の生き方を考察する。本書は、権門富貴への反骨と流浪の精神を抱き、村々の門口で自作の詩劇を唄い続ける自身の根源的な姿を綴る。執筆の動機となった他者との決定的な差異や、家庭を持たず生を全うする独自の死生観、そして世俗的な成功に縛られない自由な魂の在り方を鮮明に描き出す。

坂口安吾

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私は社会人としての自我というものを考えるから、政治についても考えるけれども、政治家にはなる筈のない生れつきである。

私は今の世に生れたから文士になったが、昔の世に生れても、決して大名貴人になろうとか、天下の豪傑になろうとは思わず、琵琶法師とか遊吟詩人というようなものになったろうと思う。

尤も私も子供の頃には軍人だの坊主になろうと考えたから、天下の豪傑や高僧になろうと試みるかも知れないが、結局は遊吟詩人とか琵琶法師というものに落付くようなタチであろうと思っている。

思うに、小林秀雄も政治家にはならないタチの教育宗教型の詩人であるが、然し彼は、琵琶法師や遊吟詩人となって一生を終ろうとする茶気はなく、さしずめ遁世して兼好法師となるところが、僕と大いに違っているのだろうと考える。

似て、似きれない、そういう違いが、教祖の文学というものを書かせたのだろう。

あらそわれないものである。私は小さい時から、豪傑を夢みる一方に、遊吟詩人を熱愛し、長じてフランスの本を読むようになったころも、ジョングラーという言葉にぶつかると、なつかしさに、いっぱいになったものだ。

私は今も、楽器をかゝえ、野山をヘンレキして、ひなびた村の門に立って、自作の詩劇を唄う旅人を考える。それは私の姿である。

私には、女房や子供と一つ家に静かに余生をたのしむというような思いは、どうしても、なじまれない。

私は時の政治に対する傲慢な批判や、権門富貴に対する反骨が生れながら身についていて、その生れながらの魂を唄声にして、ヘンレキ流浪の一生を送るように定まっているのだと考える。

私は実際に、私の死後とか、私の墓というようなことを、殆ど考えることがない。つまり子孫というようなことを、考えられないように生れついているらしい。

私には、恋人はあるが、女房という考え方にはどうしてもなれず、然し、私の死後、その恋人がすぐ生活に困らぬように何かしておいてやりたいと考えるが、私の墓を守ってくれなどゝは夢にも思ったことはなく、なんとか立派な男を探して幸福にくらして欲しいと考える。それは私の身についた想いなのである。

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