本文へ移動
TORENDIA

生死卍巴

本文約90,300字 ・ 読了時間 約181分

あらすじ(AIが作成しました)

享保十五年、蘭学を学んだ若侍・宮川茅野雄は、夜道で謎の女占い師から運命を買い取れと告げられる。その後、徳川慶正卿と老武士の密談を耳にしたことから、茅野雄は不可解な争いに巻き込まれる。谷底へ転落する苦難を乗り越え、醍醐弦四郎との対峙や奇妙な出来事を経て、茅野雄は浪江との絆を深めていく。物語は、慶正卿の館へ集う人々がかつての因縁を紐解き、平穏な結びつきを迎えるまでを描く。

国枝史郎

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 108

占われたる運命は?

「お侍様え、お買いなすって。どうぞあなた様のご運命を」

こういう女の声のしたのは享保十五年六月中旬の、後夜を過ごした頃であった。月が中空に輝いていたので、傍らに立っている旗本屋敷の、家根の甍が光って見えた。土塀を食み出して夕顔の花が、それこそ女の顔のように、白くぽっかりと浮いて見えるのが、凄艶の趣きを充分に添えた。

その夕顔の花の下に立って、そう美女が侍を呼びかけたのであった。

「わしの運命を買えというのか、面白いことを申す女だ」

青木昆陽の門下であって、三年あまり長崎へ行って、蘭人について蘭学を学んだ二十五歳の若侍の、宮川茅野雄は行きかかった足を、後へ返しながら女へ云った。

「買えと云うなら買ってもよいが、運命などというものはあるものかな?」

云い云い女をつくづくと見た。女は二十二三らしい。身長が高く肥えていて、面長の顔をしているようであった。どこか巫女めいたところがある。

「はいはい運命はございますとも。定まっているのでございますよ。あなた様にはあなた様の運命が。私には私の運命が」

「さようか、さようか、そうかもしれない。もっともわしは信じないが。……ところで運命は、なんぼするな?」

「それではお買いくださいますので。ありがたいしあわせに存じます。はいはい、あなた様の運命の値段は、あなた様次第でございます。一両の運命もございますれば、十両の運命もございます」

「なるほど」と茅野雄は苦笑したが、

「つまりは易料や観相料と、さして変わりはないようだの」

「はいはいさようでございます」と女の声も笑っている。

「それではなるだけ安いのにしよう。一分ぐらいの運命を買いたい」

「かしこまりましてございます」

こう云うと女は眼をつむって、空を仰ぐような格好をしたが、

「山岳へおいでなさりませ。何か得られるでござりましょう。都へお帰りなさいませ。何か得られるでござりましょう。それが幸福か不幸かは、申し上げることは出来ません」

――で、女は行ってしまった。

国枝史郎の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本