鵞湖仙人
本文約10,400字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
信州諏訪湖畔に現れた武士の由井正雪は、湖で奇妙な立泳ぎをする鵞湖仙人を目撃する。仙人は妖術書「南宗派乾流」の所持者であり、正雪はそれを奪おうと屋敷を訪れる。当時、仙人の屋敷には毎晩幽霊船から骸骨の軍団が現れ、孫娘を苦しめていた。正雪は悪霊退治を条件に秘巻の譲渡を交渉し、骸骨たちが残す歌の頭と尻の文字に隠された暗号を解読する。正雪の推理通り、屋敷の便所の下に埋まっていた古武将の柩が怨念の原因であり、彼らは不浄の場を取り壊すことで事態を収束させる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
そこに一軒の掛茶屋があった。
ヌッと這入って来た武士がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。
「よい天気だな、茶を所望する」
トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
富士の上漕ぐあまの釣船
西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもっているのである。
思い出す木曽や四月の桜狩。
これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。