銅銭会事変
本文約35,300字 ・ 読了時間 約71分
あらすじ(AIが作成しました)
田沼主殿頭の賄賂政治が横行する天明六年、情婦から別れを告げられた若侍・弓之助は、彼女が田沼の妾として差し出されることを知る。その後、弓之助は事件の調査のため三浦三崎へ向かい、悪漢たちが集う屋敷に潜入して彼らの正体を追う。剣の腕と知略を持つ弓之助が、暗躍する盗賊集団と対峙し、江戸の情勢に関わる謎を解明していく様子を描く物語。
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女から切り出された別れ話
天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈に耽った。初鰹一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈した。
その悪人の物語。――
梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人其角の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。
その日情婦から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
いつも決まって媾曳をする、両国広小路を横へ逸れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
女は先刻から待っていた。
やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
そうだいつもならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
女の声も洞であった。
また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。