楽書きをする女
京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀へ墨黒々と、楽書きをしている女があった。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生の春の夜のことで、京の町々は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。
寝よげに見える東山の、円らの姿は薄墨よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院、聖護院、勧修寺あたりの、寺々の僧侶たちも稚子たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒し布が、二筋三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。
祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶めかしい眺めであった。
更けまさっても賑やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれである。
二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。
と、拍子木の音がしたが、非常を警めているのでもあろう。丸太町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々しくひとしきり聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそりとなった。
一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮の花が空に向かって、馨ばしい香いを吐いている。
くもるとも
なにかうらみん
つき今宵
はれを待つべき
みにしあらねば
紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。