菊池君
本文約22,900字 ・ 読了時間 約46分
あらすじ(AIが作成しました)
一月下旬、極寒の釧路へ移り住んだ主人公は、現地の新聞社へ勤め始める。新築の社屋や暖炉の効かない下宿、個性的な女中のお芳、そして同じ町の新聞社で働く正体不明の菊池君との出会いを通じて、冬の寒国で過ごす独特の生活と記者たちの交流を描く。孤独な日々の中で、主人公は菊池君の正体や周囲の人々の思惑に思いを巡らせ、新天地での記者生活と奇妙な日常を綴る。
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一
私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度一月下旬の事、寒さの一番酷しい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に頤を埋めた首巻が、呼気の湿気で真白に凍つた。翌朝目を覚ました時は、雨戸の隙を潜つて空寒く障子を染めた暁の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、心を細めて置いた吊洋燈が昨夜の儘に薄りと点つて居たが、茶を注いで飲まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に転げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身体を縮めて床の中で待つて居たが、寒国の人は総じて朝寝をする、漸々女中の入つて来たのは、ものの一時間半も経つてからで、起きて顔を洗ひに行かうと、何気なしに取上げた銀鍍金の石鹸函は指に氷着く、廊下の舗板が足を移す毎にキシ/\と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顔を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。
雪は五寸許りしか無かつたが、晴天続きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄えた様にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鉄の板を踏む様な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如く滑かで、少し油断をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相応に見える程、厚い、立派な防寒外套を着けて、軽々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狭霧の様な呼気を被つて氷の玉を聯ねた鬣を、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。