本文へ移動
TORENDIA

母

本文約4,400字 ・ 読了時間 約9分

あらすじ(AIが作成しました)

精神病院に入院中の友人・辰夫を見舞う語り手は、全快しながらも退院できずにいる彼の孤独と、息子を冷遇する母親の狭間で苦悩する。語り手は打算から病院へ通い始めるが、沈黙と焦燥に支配された面会時間の中で、互いの神経は次第にもつれていく。やがて辰夫は退院して遠方へ移り住み、語り手は彼の地で、病院時代とは一変した母親の姿を目の当たりにする。本作は、母という存在の計り知れなさと、友人の危うい精神世界を描く。

坂口安吾

速度
🎧 母 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 6

畏友辰夫は稀に見る秀才だつたが、発狂してとある精神病院へ入院した。辰夫は周期的に発狂する遺伝があつて、私が十六の年彼とはぢめて知つた頃も少し変な時期だつた。これ迄は自宅で療養してゐたが、この時は父が死亡して落魄の折だから三等患者として入院し、更に又公費患者に移されてゐた。家族達は辰夫の生涯を檻の中に封じる所存か、全く見舞にも来なくなつた。

辰夫は檻の中で全快したが、公費患者の退院には保護者の保証が必要であるし、それに辰夫は三等患者時代の費用が百円程借りになつてゐたので、退院することが出来なかつた。辰夫は狂人達と一緒に檻の中で封筒を粘つてゐたが、一日七銭の稼ぎになると言つてゐた。

さういふわけで他に訪れる人がなかつたので、辰夫は私一人を心待ちにして暮した。ところが私は性来最も頼りにならない男で、自分の親切さには凡そ自信を持たないから、人に信頼されたりすると重苦しくて迷惑するのであつた。併し辰夫は毎日の面会が終る度に必ず目に泪を泛べて、「又明日もきつと来て呉れ給へね、君一人を待暮してゐるのだから」と言ひ乍ら痩せ衰へた指を顫はせ私の手首をきつく握るものだから、私も余儀なく毎日のやうに病院へ足を向けた。

初めのうちは寧ろ病院へ行くのが珍らしくもあつた。厳めしい石門を潜つてだらしなく迷ひ込む瞬間から、私も一人の白痴のやうにドンヨリしてしまふ精神状態が気に入つたり、それに私は、その頃辰夫のほかに全く友達を持たなかつたので退屈を持余してゐたから。それに又全快し乍ら狂人で暮す此の秀才の物語るところが、その奇怪な心境を通して眺められた此の病院の様々な風変りな出来事や、それに対する鋭いそして奇妙な彼の観察や批評等、全てが興味深いもので、いはゞ私は全く打算的に、面白づくで此の病院へ日参してゐた。

坂口安吾の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本