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TORENDIA

巨像を彫るもの

本文約2,100字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

図書館は威厳を誇る場所から、機械化された工場のような存在へと変化し、一九五〇年代には巨大な組織体として相互に連携し始めた。国立国会図書館は資料の集積と情報の提供を通じて日本民族全体の目録整理室となり、個別の知識を補い合う網の目となる。この新たな図書館の形は、かつて語り部が記憶を伝えたように、民族の記憶を担う巨大な組織として立ち上がる。機械時代において、この巨大な知の構造を構築する試みを論じる。

中井正一

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🎧 巨像を彫るもの / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

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これまで、誰でも図書館とは、寂かな、がらんとした庫のようなシーンとした、け押されるような感じのところとなっていたのである。そこには古い本があればあるほど、威張れたのである。また、その量が十万冊、百万冊と多ければ多いほど、また誇りとされたのである。そして、それは人を威圧するような円天井があって、学問の尊厳があたりを払うようなこころもちが、どうしても欠くことのできない条件となっていたのである。大英博物館の図書館、ローマのヴァチカンの図書館はその宮殿の威厳をもってあたりを払っているのである。すると、それに右にならってアメリカの国会図書館ですら、その旧館は、わざわざ円天井を造って、その下に申し合わせたように、カード箱を置いているのである。

ちょうどこれは、図書館が、これまで東洋でお経堂にはじまるように、教会の教義を書いた図書館が、その始めのすがたを中世紀に見せたことによったに違いない。中世紀の図書館には、その本がなくならないために、本を鎖でつないであって、鎖の図書館チェーン・ライブラリーなるものがあったのである。

しかるに、二十世紀に入って、町人が大いに威張り出してからは、世の中は威厳に対して、反感をもち、その臭いのするものは、「野暮」なものであり、それを脱したものが「意気」「粋」であると考えたのである。この時代が完成されて来ると、図書館なるものも、只威張っていることができなくなって来た。ベンジャミン・フランクリンが作ったところの、自分達の本をもちよって、それを読む図書館のようなものは、威張るどころか、喫茶室のようなこころもちのものを要求したにちがいない。

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