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TORENDIA

服部先生の思出

本文約3,300字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

明治32年、北京へ最初の支那留学生として派遣された筆者が、同時期に現地へ渡った服部先生との親密な交流を綴る。当時の北京の不自由な生活や、義和団事件における過酷な籠城戦を共に乗り越えた体験を振り返る。帰国後も東西の大学や文化事業で長年連れ添った二人の深い絆と、先生の逝去に際しての深い哀惜の念を描く。

狩野直喜

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🎧 服部先生の思出 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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先生と私は年齡の上では一歳しか違はないが、大學の年次は先生の方が五年も先輩で在學中から御盛名は承つて居た。殊に文部省から北京留學を命ぜられ、いろ/\な苦勞を倶にしてからは特に親密な交際をして戴くやうになつた。元來、文部省からの海外留學は例外なしに歐米行であり、又文科大學の方では外國文學の留學生は派遣しなかつたのであるが、どうした機運からか、明治三十二年に東西大學總長の推薦で最初の支那留學生として、先生と私の二人が選ばれたのである。先生は早速同年の冬に赴かれ、私は文部省の都合もあり、渤海灣の結氷のため翌年四月になつて出發した。天津について北京行の汽車に乘つたが、その終點といつて降ろされたとき、私はすつかり面喰つた。坦々として北京が何處か分らぬのである。そこは馬家堡といふ小村で、正陽門に辿りついたのは車で半時間以上も搖られた後のことであつた。當時の北京は道路も惡く衞生状態も行き屆かず、日常生活も極めて不自由であつたが、しかし近代化せず歐米の影響も現はれてゐぬ支那本來の姿が殘つてゐたのは、私達にとつては幸ひだつたと思ふ。正陽門までは先生がわざ/\お出迎へ下さつて、車をつらねて東西北六條胡同の宿舍に案内された。そこは以前に公使館のあつたところで、當時は武官室となり、柴中佐(後の大將)等がおられた。先生もそこを宿舍にしておられ、私にも一室を準備して下さつてゐたのである。尤も直接の紹介で東京で中佐に御願はして置いたが先生のお口添や御配慮のお蔭も大いにあつたのである。

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