覚え書
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
文学の本質は一つであり手段化を拒むべきだと主張し、ドストエフスキーを純正なリアリズムの体現者として高く評価する。小林秀雄の科学的批評への批判とJ・M・マリの共感の姿勢を対比させつつ、真の批評家のあり方を考察する。また、阿倍知二の小説に対する鋭い批評を通じて、過剰な反省に留まる古い人間像を否定する。理性により自らの性格を構築する新しい人間像を提示し、日本的な情緒を排して個を確立する文学の進むべき道を論じる。
💰 この本を応援する(投げ銭)
癩文学といふものがあるかないか私は知らぬが、しかしよしんば癩文学といふものがあるものとしても、私はそのやうなものは書きたいとは思はない。私にとつて文学はただ一つしかないものである。癩文学、肺文学、プロ文学、ブル文学など、或は行動主義、浪漫主義など、文学の名目は色々と多いやうであるが、しかし文学そのものが一つ以上あるとはどうしても思はれぬ。文学が手段化した時に文学はもう堕落の一歩を踏み出してゐるのだ。詩と散文とを区別することすら、私はなんとなく不自然を感じてならぬ。
それはともかく、私は実はドストエフスキーを読みたいのだ。純正なリアリズムの大道はドストエフスキーを措いて他にないと私は考へてゐるのだ。
小林秀雄のドストエフスキー論を読んで何時も感じる不満は、氏の科学的な正確さにある。ドストエフスキーの偉大は、このやうな正確さは踏みにじつてしまふであらう。だから氏のド論を読み進めてゐると、私は何時もハラハラした危つかしい気持を味はねばゐられない。それなら一体どうすればいいのだらう、ただ読んで共感するだけだ。J・M・マリのドストエフスキー論の立派さは、この共感をぶちまけてゐることろにあると私には考へられる。がその点批評文としては小林氏にはるかに及ばない。ここにおいて最も純正なドストエフスキー論者は、彼と同一の頭脳組織を有し、同一の精神生活をなし得る人間が、更にその自己を客観視し得る自意識の所有者であらねばならぬ。