TRENDIA CLASSIC

覚え書

北條民雄

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癩文学といふものがあるかないか私は知らぬが、しかしよしんば癩文学といふものがあるものとしても、私はそのやうなものは書きたいとは思はない。私にとつて文学はただ一つしかないものである。癩文学、肺文学、プロ文学、ブル文学など、或は行動主義、浪漫主義など、文学の名目は色々と多いやうであるが、しかし文学そのものが一つ以上あるとはどうしても思はれぬ。文学が手段化した時に文学はもう堕落の一歩を踏み出してゐるのだ。詩と散文とを区別することすら、私はなんとなく不自然を感じてならぬ。

それはともかく、私は実はドストエフスキーを読みたいのだ。純正なリアリズムの大道はドストエフスキーを措いて他にないと私は考へてゐるのだ。

小林秀雄のドストエフスキー論を読んで何時も感じる不満は、氏の科学的な正確さにある。ドストエフスキーの偉大は、このやうな正確さは踏みにじつてしまふであらう。だから氏のド論を読み進めてゐると、私は何時もハラハラした危つかしい気持を味はねばゐられない。それなら一体どうすればいいのだらう、ただ読んで共感するだけだ。J・M・マリのドストエフスキー論の立派さは、この共感をぶちまけてゐることろにあると私には考へられる。がその点批評文としては小林氏にはるかに及ばない。ここにおいて最も純正なドストエフスキー論者は、彼と同一の頭脳組織を有し、同一の精神生活をなし得る人間が、更にその自己を客観視し得る自意識の所有者であらねばならぬ。

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