日本上古の硬外交
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あらすじ(AIが作成しました)
神功皇后による新羅討伐と、聖徳太子が隋へ送った国書を中心とした日本上古の外交姿勢を論じる。武力による硬外交を以て国威を示し、平和と利益を追求した皇后の決断と、中国と対等な立場を主張した太子の知略を詳述する。また、遣唐使らが大陸の文化を吸収しつつも、終始威厳を保った外交を展開した歴史を辿り、大陸諸国に対して日本が独自の文化と気概を確立していった過程を綴る。
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一
インドネジアン族、インドチャイニース族の集合であるところの熊襲が大和朝廷にしばしば叛いたのは新羅が背後から使嗾するのであると観破され、「熊襲をお討ちあそばすより先に新羅を御征伐なさいますように」と神功皇后様が仲哀天皇様に御進言あそばされたのは非常な御見識と申上げなければならない。
しかるに御不幸にも仲哀天皇様には、熊襲及び土蜘蛛を御征伐中に御崩御あらせられた。
そこで神功皇后様には御自ら新羅御討伐の壮挙を御決行あそばす御決心をあそばされ、群臣に、
「軍を興し兵を動かすは国の大事にして安危、成敗は繋って焉に在り。今、吾、海を超えて外国を征せんとす。もし事破れて罪爾等に帰せんか、甚だ傷むべし。仍って吾しばらく男装して雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助を籍る。事成らば爾等の功なり、事破れば吾の罪なり。」
と仰せられ、大いに船舶を集め、新羅征伐に御発足あそばされた。
この御壮挙には二つの大きな特色がある。その一つは、臣下の将兵のみを新羅討伐におつかわしにならないで、やんごとない皇后様御自ら総帥として御出陣あそばされ「事成らば爾等の功であり、事破れなば吾の罪なり」と、全責任を御自ら御執りあそばされた、その御勇猛心と御仁慈であり、もう一つは、領土蚕食とか物資獲得とかの侵略的意図の新羅討伐ではなく、大日本国の一部であり大和朝廷の治下にある九州の地を騒がし、熊襲族を煽動して反復常なからしむるものが新羅であり、その新羅はとうてい平和の外交手段を以てしてはその邪の行動を抑えることは不可能であるとおぼしめした結果、武力を以って御征しあそばしたということであって、従ってこの新羅御討伐は平和外交の形の変わった硬外交、武力外交であるということが出来るのである。