本文へ移動
TORENDIA

温室の恋

本文約10,900字 ・ 読了時間 約22分

あらすじ(AIが作成しました)

木曾福島の町に魅せられた「私」は、飲食店美満寿屋の常連となり、そこで美貌の青年と出会う。その青年は謎の令嬢・園原雪枝と親密な関係にあり、二人は豪華な温室で不可解な生活を送っていた。ある日、町で起きた巨額の盗難事件をきっかけに、温室で二人の男女が遺体で発見される。調べにより、背後には悪漢・季参の存在があったことが判明し、「私」は事件の真相を書き残して町を去る。

国枝史郎

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 14

一

中央線木曾福島!

ただ斯う口の中で云っただけでも私の心は踊り立つ。それほど私は其町を――見捨てられたような其町を限り無く好いているのであった。人情、風俗、山川の姿……福島の町の一切の物が私には愛らしく好ましい。

とは云え、私は、二度と再びその町を訪ねようとは思わない。何んと矛盾した考えでは無いか! 併し私が其町で親しく経験した不思議な事件の恋物語を聴かれたなら恐らく誰でもが此矛盾を認め頷かれるに違い無い。で私は是から其不思議な恋愛悲劇の大略に就いて物語りの筆を進めようと思う。

×

木曾の盆踊を見ようと思って、八月の終りに福島へ行った。渓流と翠巒の相逼った突忽とした風景がどんなに私を喜ばせたか。そして盆踊の雄大さには私は肝さえ潰したのである。一千に近い大衆が狭い町筋に楕円を描いて夜の七八時から翌朝まで文字通り無宙に踊り抜くのである。真率な文句、単調な身振り、節は誰も知っている「ナカノリさん」である。私は踊を見ている中に嬉しさに胸が躍って来た。そうして全く可笑しな事には、踊子の中の女達が声を揃えて唄い出した時には、涙が眼から零れたのであった。「何んて幸福そうに唄っていることだろう」斯う思った瞬間眼頭からヒョイと涙が出たらしい。そうして涙がこぼれると一緒に何うやらこんなように呟いたらしい。

「俺は福島を祝福する! どうしたって此町に住まないでは置かぬ!」

そうして実際、その時以来、私は福島に住むようになった。私は其時独身ではあったし、夫れに私の商売なるものが――商売というのも烏滸がましいが、売文に依って口過ぎを為し――それも通俗物の小説などで――生活を営んで居ったので、何処へ住もうと随意であった。住めば住む程福島という町は私の趣味にピッタリと適った何うにも離れ難無い町となって来た。その中に誰か彼か知己も出来て料理屋などとも懇意になった。

国枝史郎の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本