暑中休暇が、もう終りに近かつた。私は休暇中の自分の予定が、まだ三分の一も出来てゐないことでヂリヂリしてゐた。それに一ヶ月余りといふものを寝て起きて食ふと言ふ全くその文字通りの日暮しのために、いつときも我慢し切れなくなつてゐた。
或日父は近頃にない早く、外来患者も病室の方も済まして、表の間の卓に頬肘を突いた儘、縁先の河鹿の鉢をヂツと瞶めてゐた。私はその父を見ると何か言つて見たくなつた。私は下らない刺戟でも欲しい程退屈を感じてゐたのだ。そして余り切望するでもないことでも引つ張り出すより他仕方なかつた。
「お父さん、今から近所に遊びに行つて来ますよ。」
「またそんなことをいふ。一度不可ないつたら不可ない。」
父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかつた。外から来る子供だつて大抵は追ひ帰してしまふのであつた。
「此の近所に一軒だつて上品な家はない。みんな下層民の寄り集りぢやあないか。」
父はさう附け加へた。その語気には父がもはや昂奮してることが明かに見えてゐた。私は父が自分のさうした昂奮のために放つ言葉を、親が子を諭す言葉だと、習慣的に信じて言つてることが俄かに堪らないことに思へ出した。「人間の昂奮とかいふものはさう永続的でないのだから……」――私はそんな理窟を勝手に捏ね揚げて自分の心を制しようと強めた。けれども父は昂奮と一緒に条件的なことを言ふのだから私の自由は狭められるばかりだつた。
「さう酷く言はなくつたつて……お父さん。」
「決して酷くない。」
父はいやに落付いて言つた。
「それぢやあ図書館に行つて来ますよ。」
「まだそんなことを言ふ。それ程必要な本があれば図書館に行かなくつたつて、私が買つてやると言つてるぢやあないか。」
さう言つた父は急に立ち上がつて河鹿に手水をやつた。再び元の所に帰つた。そしてまた今更の様に口を切つた。
「それぢやあない、私は学校以外には一切出すまいかとさへ思つてゐる。昨晩もお母さんと話したんだが。」
私はそれを聞いて本当だとは思へなかつた。何れほんの今発作的に浮んだに過ぎない父の考へだと決め込んだ。