医者と赤ン坊
本文約2,900字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
来診を終えた医者は、長男との確執や自身の子供への思いに煩悶しながら居間で時間を過ごしている。そんな中、看護婦が赤ン坊の急患を告げに駆け込んでくる。医者は赤ン坊が喉に餅を詰まらせた重篤な状況を診察し、治療を試みる。治療の傍らで母親が泣き崩れ、自身の家庭内の複雑な事情や亡き子への追憶が医者の脳裏をよぎる。緊迫する現場で医者は再び赤ン坊の処置に向き合い、長男の書斎を訪れた妻を含め、家族を取り巻く日常の風景と焦燥を描く。
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午前からの来診患者が一先づ絶えたので、先刻から庭木に鋏を入れてゐた医者が、今居間に帰つて来た所だ。
窮屈さうに、紫檀の卓に頬肘を突いて、今まで其処に自分のゐた庭に、障子の中硝子を透して集中しない視線を遣つてゐた。
卓の上には西日が流れて、淡く塵垢さへ見られた。彼の肘の前にある灰皿の中の、喫ひ終つたばかりの喫殻から登る紫色の煙と、他の古い喫殻にそれが燃え移つて出る茶褐色の毒々しい煙とが、やゝもすれば彼の顔に打つ衝かつたが、そんなことには元来頓着ない彼であつた。折々堪らないやうに双眼の切れ目から輻射状の皺を発したが、それでも更にそれらの喫殻に手を下さうとしないのは、明かに彼自身にも得体の知れぬ悶えが、彼の中を横行してゐたからである。
家敷の二方に並ぶ病室からは、患者や附添人等の呑気な饒舌が、時には高く、その余はゴトゴトと聞えて来た。
入院患者の中で、若い者は看護婦のゐる室に出掛けて、彼女等を揶揄つた。疳高い甘え声が、真昼の暑熱が漸く鈍い渾然さをみせた夕刻の空気の中を、矢のやうに走つた。そしてそれは彼の耳には格別によく響き入つた。
又、台所の方からは三十人に近い此の一家の夕飯仕度の煩雑な音が、これは人の胸を包むやうに彼の所に漂ひ寄つた。「エヽくそツ!……」と思つた。だがその直ぐの瞬間に、「あれは命をつなぐものだ」といふ考へが彼の頭を占領した。
湯殿でまだ沸き切らぬ湯をチヤブチヤブさせて遊んでゐる四人の小さな子供等こそは、実は一番喧しかつたのだが、長男に就いての一件の起こつてる時なので、他の四人の子供は何だか可愛い気がして、何時ものやうにとても「やめろ!」と怒鳴ることは出来なかつた。
「病室の奴等は……」と思ふとその饒舌の声々に腹が立つたが、その入院してる一人々々の顔を憶ひ出すと、何にも云へぬ気がした。
「看護婦の奴等め!……だがまたふてくされるのか……」――そこで彼は嘆息した。
腕はその儘、頭だけを屈めてサラリと禿げかゝりのそれを撫でた。そして頭を屈めた際につむつた眼を、云ふことの出来ない表情で開くと、閉つた口をムニヤムニヤとさせた。開かれたばかりの下瞼は、老七面鳥を想はせた。