葵原夫人の鯛釣
本文約8,100字 ・ 読了時間 約17分
あらすじ(AIが作成しました)
葵原夫人は、夫の晩酌に贈った大鯛の美しさに魅了され、自ら沖の大鯛釣りへ挑戦することを決意する。運動家で活動的な夫人は、これまでに山釣りや溪流釣りの経験を積み、その腕を磨いてきた。釣りの指導役である語り手と共に東京湾口の釣り場へ向かった夫人は、期待に応えて見事に大物を釣り上げる。釣りの興趣に陶酔する夫人の姿と、海に浮かぶ美しい鯛の様子、そして釣果を携えて帰路につく船上での心境を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
葵原夫人は、素晴らしい意気込みである。頬に紅潮が漂って来た。
「では、いけませんか?」
と、念を押す。
「いけない、と言うことはありませんが、一体に婦人は舟に弱いものですからね」
「いえ、それでしたら御心配いりませんわ。私、もう五、六年も毎年葵原と一緒にヨットの練習をやっているんですもの――一度だって、眩ったこと御座いませんの――」
「それなら、いいですが」
「昨年の夏は、品川から三崎まで遠乗りしましたわ。ちゃんと、度胸が据わってます」
「大したものですな――しかし、葵原君が同意するかどうか?」
「ところがですわ、今朝お前がやって見たいと言うなら、行ってお願いして見なさい、と言って葵原の方から私に勧めたような訳で御座いますわ」
「そうでしたら、構いませんが……」
が、しかし、時化を食った白波の海の真ン中で、婦人が船眩いに苦しむ、ぐったりとした姿を想像して見た。これは、自分が苦しむより以上、悩ましきものであると思った。
「では、御供させて戴けるんですか?」
「それ程、御熱心なら……」
二
婦人として、曾て試みた者はないであろうと思う、沖の大鯛釣へ葵原夫人は、連れて行って呉れと言うのである。
(よもや)
と、思っているところへ、だしぬけにやって来たのであった。
ではあるが、この頃の葵原夫人の釣熱から考えると、当然のようでもある。と言うのは、私が昨日の夕方東京湾口で釣った大鯛を、葵原君の晩酌の肴に持参したからである。鯛は、海神の寵姫であるかも知れない。淡紅の肌に泛んだ紫紺色の小さな斑点は、夜宴のドレスを飾る無数の宝玉のようにも見える。虹の光沢に似て光る二つの腹鰭、円い大きな澄んだ眼、豊満な鱗の下の肉。威あって而も優しい体から受ける形容は、ただ一つ麗艶の言葉に尽きる。しかもそれが、一貫三百匁の大物であった。
「立派ですなア」
葵原夫妻は、笹を敷いて籠の上に在る贈物に、眼をって讃嘆した。
「私も釣って見たい……」
心の表現を補足しようとするのであろうか、夫人は葵原君の肩を双手で揺った。
「駄目だ――それは、泥亀が月を望むと同じようなものだ」
「私、きっと釣って見せるわ。きっと――」