緑雨と一葉
本文約1,200字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
債鬼に追われ都を落ち、市川町に身を寄せる斎藤緑雨が樋口一葉に宛てた書簡を軸に、両者の交流を辿る。一葉の妹邦子が遺品として保管していた五通の書簡の背景や、一葉が緑雨に対して抱いた「敵にとりても面白く」といった複雑な心情、また病に伏す一葉を支え、死後も樋口家のために尽くした緑雨の人となりを描く。文芸上の交流から私的な絆まで、断簡から浮かび上がる二人の関係性を多角的に考察する。
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かの日都を落ちて船橋にやどり申候 きのふより市川町に戻りて百姓家を借りうけ、ともかくすごし居り候
今宵は松葉の土手と申すを下りて渡船にのりて月を觀候 なみ/\の旅ならねば落人の身の上いとゞ悲しく候
これは殘少き眞間のもみぢに候 處の名とは申ながら※[#「義」の「我」に代えて「咨-口」、U+7FA1、6-1-14]ましく候
鬼共の都にて立騷ぎ候姿 目に見えておもひ候やうに眠られず候
この先いかゞ成行くべきかみづからも知らず候
人のもとへ今日申遣はし候ことあり 其模樣次第にて委しくは可申候
十日夜
この手紙は齋藤緑雨から樋口一葉に宛てたものである。封筒もなく署名もないが、あの一癖ある肩さがりの筆蹟と、この書簡が一葉の妹邦子さんの筐底にあつたことで、さう斷定されるのである。一葉の後、邦子さんは亡き姉の遺稿を整理する傍ら、一葉がまだ中島歌子の萩の舍塾で歌の手ほどきを受けてゐた時分の、詠草や手紙の下書き、日記や小遣帳、大音寺前時代の仕入帳などを丹念に整理して、桐の箱に收めて藏つておいた。その中には、見ず知らずの愛讀者から貰つた手紙もあり、自分の手紙の下書きなどは本物のやうに、美しい例の千蔭流で走り書きされてあつた。些細なものまで大切にする一葉の心がけは勿論、どんな斷簡でもそれを形身として尊んだ邦子さんの姉おもひに、涙を誘はれずにはゐられない。先年、邦子さんの愛息悦氏の依囑で、これらの文反古と呼ばれるにはあまりに美しい斷簡を編纂した時、特に私の住んでゐる眞間にゆかりの深いこの一通を所望した。
緑雨の手紙は全部で五通あるが、そのうち二通は自筆ではなく一葉の寫したものである。これは手紙をもつてきた車夫の口上が、人の口がうるさいから讀んだらすぐ返してくれといふので、妹にそれを讀ませ大急ぎで書きとつてしまつたのである。