こがらし
本文約2,800字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
明治中期の東京。寒さ厳しい晩秋から初冬にかけて、少年が体験したこがらしにまつわる記憶と心象風景を描く。常に火事を恐れる暮らしの中で、ある日見た耶蘇教の葬儀や、成長後に読んだ盗賊の物語を重ね合わせ、季節の風が少年の心に与えた独特の気配と落ち着かない心理を綴る。後の学校生活における、こがらしの日に決まって早退する学生たちの不可解な連帯感を通じて、東京で生まれ育った者特有の火事への根源的な恐怖と感覚を回想する。
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こがらし、筑波おろし、そういう言葉を明治中期の東京の少年達は早くから知って居た。そうして其の言葉を、自分達の書くものの中などにも使って居た。それは寒さが今よりも早く来たし、衣料も今のように温い毛の物などが無く、風がひどく身に沁みて、始終人がそういう言葉を口にしたからであった。十一月三日という日は何時も霜が深く、時にはみぞれが小雪になるような日さえあった。子供達は大抵紀州ネルのシャツを着ていて、それは袖口に瀬戸物のボタンの有るものであった。無論マントなどというものは着なかったのである。いや、それよりも、東京市中には殆ど高層建築というものがなく、地勢によっては、何処からでも富士も筑波も見通しで、分けても北の筑波おろしが身に沁みたのである。
一の酉が済んで七五三の祝い日ごろに成ると、大拡の木の葉が吹き落され、毎日こがらしが吹きすさむ。夜は戸を閉めて灯の色が暖く、人けも多くなるので、何か拠りどころが有るような気がするが、昼間吹く空ッ風は明るいだけに妙に頼りなく、風の子の子供達にさえ索漠としておちつかない気持を与える。こんな日に火事があると大変だな、遊んで居た子供がふとそんなことを言い出す。それは大風の日、神田から火事が出ると、きまって京橋鉄砲洲まで燃え抜けるという伝えを、常々年寄達も云って居たし、現に近頃神田に起った火事が、翌日の午後になってもまだ消えずに居たことを知って居るからであった。当時町なかでない静かな所に住んで居た私の家にさえ、一人々々が背負うように、連尺という紐の着いた小つづらが残って居たし、又火事の時に雑物を入れて運び出すために、用心籠と称する長持のような大きな竹籠が用意されて居た程であった。