TRENDIA CLASSIC

藍瓶

田中貢太郎

1 / 6

玄関の格子戸がずりずりと開いて入って来た者があるので、順作は杯を持ったなりに、その前に坐った女の白粉をつけた眼の下に曇のある顔をちょと見てから、右斜にふりかえって玄関のほうを見た。そこには煤けた障子が陰鬱な曇日の色の中に浮いていた。

「何人だろう」

何人にも知れないようにそっと引越して来て、まだ中一日たったばかりのところへ、何人がどうして知って来たのだろう、まさか彼ではあるまいと順作は思った。と、障子がすうと開いて黄ろな小さな顔が見えた。

「おったか、おったか」

それは出しぬいて犬の子か何かを棄てるように棄てて来た父親であった。

「あ」

順作はさすがに父親の顔を見ていることができなかった。それにしても荷車まで遠くから頼んで、知れないように知れないようにとして来たのに、どうして知ったのだろうと不思議でたまらなかった。

「電車をおりて、十丁ぐらいだと聞いたが、どうして小一里もあるじゃないか、やれ、やれ」

どろどろして灰色に見える小さな縦縞のある白い単衣を着た老人は、障子を締めてよぼよぼと来て茶ぶ台の横に坐った。

「よく知れた、ね」

順作はしかたなしにそう云って父親の小さな黄ろな顔を見た時、その左の眼の上瞼の青黒く腫れあがっているのに気が注いた。

「前の車屋の親方が聞いて来てくれたよ、お前が出しぬけに引越したものだから、俺、お大師さんから[#「お大師さんから」は底本では「お太師さんから」]帰ってまごまごしてると、車屋の親方が来て、お前さんとこの息子は、とんでもねえ奴だ、親を棄てて逃げるなんて、警察へ云ってくが宜い、俺がいっしょに往いてやろうと云うから、俺がそいつはいけねえ、あれもこれまで商売してて、旨く往かなかったから、都合があって引越したのだ、そいつはいけねえと断ったよ」

「あたりまえよ、不景気で借金が出来たから、ちょと逃げてるのだ、警察なんか怖いものか」

「そうとも、そうとも、だから俺、あの親方が、家へ来いと云ってくれたが往かなかったよ」

「よけいなおせっかいだ」

田中貢太郎の他の作品