TRENDIA CLASSIC

森鴎外

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明け易い夏の夜に、なんだってこんなそうぞうしい家に泊り合わせたことかと思って、己はうるさく頬のあたりに飛んで来る蚊を逐いながら、二間の縁側から、せせこましく石を据えて、いろいろな木を植え込んである奥の小庭を、ぼんやり眺めている。

座布団の傍に蚊遣の土器が置いてあって、青い烟が器に穿ってある穴から、絶えず立ち昇って、風のない縁側で渦巻いて、身のまわりを繞っているのに、蚊がうるさく顔へ来る。夕飯の饌に附けてあった、厭な酒を二三杯飲んだので、息が酒の香がするからだろうかと思う。飲まなければ好かったに、咽が乾いていたもんだから、つい飲んだのを後悔する。

ここまで案内をせられたとき、通った間数を見ても、由緒のありげな、その割に人けの少い、大きな家の幾間かを隔てて、女ののべつにしゃべっている声が、少しもと切れずに聞えているのである。

恐ろしく早言で、詞は聞き取れない。土地の訛りの、にいと云う弖爾波が、数珠の数取りの珠のように、単調にしゃべっている詞の間々に、はっきりと聞こえる。東京で、ねえと云うところである。ここは信州の山の中のある駅である。

暫く耳を済まして聞いていたが、相手の詞が少しも聞こえない。女は一人でしゃべっているらしい。

挨拶に出た爺いさんが、「病人がありまして、おやかましゅうございましょう」と、あやまるように云ったが、まさか病人があんなにしゃべり続けはすまい。

もしや狂人ではあるまいか。

詞は分からないが、音調で察して見れば、何事をか相手に哀願しているようである。

遠いところでぼんぼん時計が鳴る。懐中時計を出して見れば、十時である。

月が小庭にさしている。薄濁りのしたような、青白い月の光である。きのう峠で逢った雨は、日中の照りに乾いて、きょうは道が好かったに、小庭の苔はまだ濡れている。「こちらが少しはお涼しゅうございましょう」と云って爺いさんに連れて来られた黄昏に、大きな蝦蟇が一疋いつまでも動かずに、おりおり口をぱくりと開けて、己の厭がる蚊を食っていたのを思い出して、手水鉢の向うを見たが、もうそこにはなんにもいなかった。

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