艸千里
本文約6,700字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
肥の国の大阿蘇の山にある草原、艸千里濱を舞台に、詩人が旅の途中でかつての希望や過ぎ去った年月、友や愛しい人への追憶を綴る。また、著者の思索や日常の風景を収める本作は、初夏の蝉の鳴き声や一輪の紅花に寄せる想い、傷つき雨に打たれる馬の姿などを通じて、時の流れや喪失感、そして生の意味を静かに描く随筆・詩集である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
枕上口占
もとおのれがさえのつたなければぞ、集ならんとする夜半……
私の詩は
一つの着手であればいい
私の家は
毀れやすい家でいい
ひと日ひと日に失はれる
ああこの旅の つれづれの
私の詩は
三日の間もてばいい
昨日と今日と明日と
ただその片見であればいい
又
私の詩は 明け方西の空にある
昨日の月
やがて地平の向ふに沈む 昨日の月への
餞けだ
既に私はそこにない
それは私の住處でない
讀む人よ 憐れと思へ
私の詩が私を驅る
私を驅る
涯しない流沙のうち
蝉
セミといふ滑車がある。井戸の樞の小さなやうなものである。船の帆柱のてつぺんに、たとへばそれをとりつけて、それによつてするすると帆を捲き上げる時、きりきりと帆綱の軋るその軋音を、海上で船人たちは蝉の鳴聲と聞くのである。セミ、何といふ可憐な物名であらう。
今年五月十日、私は初めて、私の住む草舍の前の松林に、ひと聲蝉の鳴き出る聲を聞いた。折から空いちめんの薄雲が破れて、初夏といふにはまだ早い暮春の陽ざしが、こぼれるやうに斜めに林に落ちてきた、私はそれに氣をとられて讀んでゐた本を机の上に置かうとしてうなじを上げた、その時であつた、天上の重い扉が軋るやうに、ぎいいとひと聲、參差として松の梢の入組んだとある方に、珍らしや、ただひと聲あの懷かしい聲を風の間に放つものがあつた。
蝉! 新らしい季節の扉を押し開く者!