棋家の文章など
本文約1,500字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
囲碁棋士たちの文章が持つ独特の風味と、相撲放送の解説者が聞かせる力技者らしい風格の発声についてを綴る。著者は、一つの芸に精根をつくした人々が記す文章の用意と反省の跡を好ましく感じ、政治家や演者とは異なる、自身の領分に落ち着きを見出す棋士の文体や相撲解説者の解説に親しみを覚える。詰碁に興じる時間も含め、特定の分野に情熱を注ぐ人々の姿と、そこに漂う空気感や魅力を軽やかな筆致で描き出している。
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棋客の前田陳爾さんに近づきはないが、その囲碁批評はいつも面白く拝見してゐる。なかなかの文章家で、評語は私どもには高遠にすぎることがたいていのやうだが、読ものとして面白く拝見するのを常としてゐる。同じ棋客の向井一男さんなんかも名文家のやうである。故人の久保松機山なんかも、これはもう一そう文章家であつたかも知れない。一芸に秀でた人物必ずしも筆がたつとは限らないが、一つことに精根をつくしたこれらの人々の文章には、どこやら用意と反省の行とどいた跡がほのみえ、文筆家といふではなくとも――それだからさらりとしてゐて、その風味の格別なのが好ましくうけとられる。
売文家の文章はそれはそれなりにまた格別の用意を蔵してゐて、それも結構といつておくより外はないけれども、詩家の詩書家の書好ましからず、と良寛さまもいはれたやうに、鼻につくことがないでもない。糊口家業はしがないもので、いたしかたのないことかと領解される。
するとまた、書家の書好ましからず、と墨象一派の新書道家がご都合よろしくこれを楯にとらうとする。それはひどいよと、先日も私はひとり呟きすてたが。
ラヂオなどで聞く政治家の演舌俳優の口跡、いづれも腑に落ちかねるものが多い。唐突な比較だが、いつぞや白洲正子さんもそれをいつてゐられたやうに、相撲放送の解説者はまことに好ましい音声を聞かしてくれる。力技者らしい風格の発声で、解説も自信に満ちてゐる。大山親方は模倣のできない声を出すし、神風さんは私にとつては郷音でなつかしい。私は場所になつてそれを聞くのを消閑の楽しみとしてゐる。
比べていふと、野球放送の方も結構面白いが、滋味においていくらか聞き劣りがするやうである。何と申しませうかの小西節は、抑揚があつて流暢、私も傾聴者の一人であるが、どういふわけか小西さんは、走者がたとへば二塁盗塁に失敗したやうなときに、「得点のきずなを失ひましたね」といふ風に聞きとれることをいはれる。
小西さんの影響だらうが、私は近ごろ他にもこの種の「きずな」を、活字の上に二三度見かけた。私の聴き違ひでなければ、御訂正をここにちよいとお願ひしておきたい。