福沢先生の処世主義と我輩の処世主義
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あらすじ(AIが作成しました)
大隈重信が、福沢諭吉の処世主義と自身の考えを比較し、共通の凡人主義について論じる。互いに初対面時は衝突したが、洋学を通じた思想的共通点から意気投合し、教育家と政治家という立場の違いこそあれ、明治社会へ文明思想を注入するべく共に尽力した過程を綴る。外面の華美や虚飾を排した正直な生活態度、また信念を曲げない姿勢を通じて、いかに社会へ貢献したかを回顧し、亡き福沢の遺志を背負う自身の責務を説く。
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凡人主義の勝利者 福沢先生に処世主義というべきものが有ったかどうか知らぬが、我輩には処世主義というべきものがない。一体処世上主義というのは定められる理屈のものでない。それを世人が処世主義とか何とかいうのはいわゆる講壇的のもので、テーブルの上から学生に講義をする時の事である。ところがすべて世の中の事は、学校の講義のような趣向には顕われて来ない。で処世主義などいうことは講壇ではいえるけれども、実社会にはあまり必要のない事である。然るに近頃何主義某主義というように種々の主義が流行するが、主義という事は左様に無造作なものでない。
我輩は学者でもなければ天才でもない。頗る平凡な人間だ。凡人だ。多分福沢先生も凡人であったろうと思う。もし先生が非凡人で常に高く止って澄まし切っておられてあったら、あれだけの偉い人にはなれなかったのである。で強いて申さば、福沢先生は凡人主義の勝利者である。
凡人主義は実行主義 福沢先生と同一種類の学問をした人達の中で、非凡の主義を持った人があるかも知れない。けれどもそういう人はすべて失敗である。なるほど非凡人主義の人達は口が達者で、議論が好くて、処世の講義は巧かったかも知れないが、これは福沢先生の口調を藉りて申せば、いわゆる空念仏で実際出来ない事をいうのだ。一体口の先は調法なもので、口の先では豪傑にも聖人にも孔子にも釈迦にもなれる。これは今の人間の智恵が、昔の人間の智恵よりよほど進んだのである。もし今の人間の口先にかかったら、耶蘇孔子の如き古の大宗教家といえども、恐らく三舎を避けるであろうと思う。しかしこれは口先や議論の話でいざ実行となると、今人は古人に及ばない。非凡人主義の役に立たない理由はこれである。一体実行せずに高尚な理屈をいったところでそれが何になる。いうて社会を攪乱するよりはむしろいわずに実行し易き事を実行した方がいいではないか。