仏像とパゴダ
本文約2,500字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
ビルマを訪れた著者が、現地の無数の仏像や円錐形のパゴダに見る造形的な貧しさを綴る。日本の五重塔や名もなき仏師の作品と比較しながら、自国の文化伝統の強靭さを論じると同時に、彫刻美の鑑賞に偏りがちな近代人の視点を問い直し、本来の信仰のあり方について考察を収める。
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たとえば私と一緒にビルマへ行った人が、ビルマの仏像のひどさに就いて書いていた。ビルマは有名な仏教国で仏像が至る所にあるのだが、その至る所にある仏像のひどさ、――児戯に類するという言葉があるがその形容が如何にもぴったりと当て嵌ると思われるその彫刻のひどさ。私たちが日本にあって拝む仏像も皆立派なすぐれたものばかりという訳ではないが、それにしても、私の家の仏壇にある仏像にしても、それは決して彫刻的に立派なものだとは言えないけれど何かしら敬虔な気持にさせられるそうした彫刻であることは慥かだ。ところが向うの仏像を拝みに行くと、そうした敬虔の想いを一向におこさせない、というより、こうしたものを拝まねばならぬのか、こうしたものをビルマの人々は拝んでいるのかと何か情けないような気さえおこさせられる、なんとも名状し難い彫刻なのであった。日本だと仏堂に釈迦像は一体ときまっているがビルマの仏堂には大小さまざまの仏像がいっぱい押すな押すなの盛況で並べ立ててある。ビルマ人が次から次へと献納するからであるが、その無数とも言う可き仏像がどれもこれも味気ない彫刻である。
こういう所に見られる文化的低調は、明治時代的な水準というものと違う、もっとも根本的なものとせねばならないようだ。伊原宇三郎氏がビルマに見えた時、氏もまた私にビルマに於ける造形美術の貧しさに一種の幻滅を感じたと言っていた。