TRENDIA CLASSIC

金貨

森鴎外

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左官の八は、裏を返して縫ひ直して、継の上に継を当てた絆纏を着て、千駄ヶ谷の停車場脇の坂の下に、改札口からさす明を浴びてぼんやり立つてゐた。午後八時頃でもあつたらう。

八が頭の中は混沌としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆ど全く麻痺させてゐる。

八の頭の中では、空想が或る光景を画き出す。土間の隅に大きな水船があつて、綺麗な水がなみなみと湛へてある。水道の口に嵌めたゴム管から、水がちよろちよろとその中に落ちてゐる。水の上には小さい樽が二つ三つ浮いてゐる。水船のある所の上に棚が弔つてあつて、そこにコツプが伏せてある。そのコツプがはつきり目の前にあるやうに思はれるので、八はも少しで手をさし伸べて取らうとする処であつた。

いつまでもここにかうして立つてはゐられないといふこと丈は、八にも分かつてゐる。そんならどこへ行つたら好からう。当前なら内へ帰るべきであらう。店賃が安いので此頃越して来た、新しいこけら葺から雨の漏る長屋である。併しそこは恐ろしい敵がゐる。八はいつでも友達と喧嘩をすることを憚らない。何故といふに、友達なら、打つか打たれるか、兎に角勝負が附く。あのこけら葺に立て籠つてゐる敵はさうは行かない。いくら打つても敲いても、勝負が附くといふことがない。彼は喊声を上げて来る。打つて※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]を拵へる。※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]が平になる。又喊声を上げて来る。又※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-22]を拵へる。又それが平になる。Sisypos の石は何度押し上げても又転がり落ちて来るのである。八が此敵に向ふことを敢てするのは、腹に酒のある間ばかりである。酒がなくなつては、どうも敵陣に向ふことが出来ない。実に敵といふ敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。

八はぼんやりして立つてゐる。身の周囲の闇は次第に濃くなつて来て、灰色の空からをりをり落ちて来る雨が、ひやりと頭の真中の禿げた処に当たる。

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