TRENDIA CLASSIC
遥かな旅
原民喜
1 / 9
夕方の外食時間が近づくと、彼は部屋を出て、九段下の爼橋から溝川に添い雉子橋の方へ歩いて行く。着古したスプリング・コートのポケットに両手を突込んだまま、ゆっくり自分の靴音を数えながら、
汝ノ路ヲ歩ケ と心に呟きつづける。だが、どうかすると、彼はまだ自分が何処にいるのか、今が何時なのか分らないぐらい茫然としてしまうことがある。神田の知人が所有している建物の事務室につづく一室に、彼が身を置くようになってから、もう一年になるのだが、どうかすると、そこに身を置いて棲んでいるということが、しっくりと彼の眼に這入らなかった。どこか心の裏側で、ただ涯てしない旅をつづけているような気持だった。……夜の交叉点の安全地帯で電車を待っていると、冷たい風が頬に吹きつけてくる。街の灯は春らしく潤んでいて、電車は藍色の空間と過去の時間を潜り抜けて、彼が昔住んでいた昔の街角とか、妻と一緒に歩いていた夜の街へ、訳もなく到着しそうな気がする。
彼は妻と死別れると、これからさきどうして生きて行けるのか、殆ど見当がつかなかった。とにかく、出来るだけ生活は簡素に、気持は純一に……と茫然としたなかで思い耽けるだけだった。棲みなれた千葉の借家を畳むと、彼は広島の兄の家に寄寓することにした。その時、運送屋に作らせた家財道具の荷は七十箇あまりあった。郷里の家に持って戻ると、それらは殆ど縄も解かれず、土蔵のなかに積重ねてあった。その土蔵には妻の長持や、嫁入の際持って来たまま一度も使用しなかった品物もあった。それらが、八月六日の朝、原子爆弾で全焼したのだった。田舎へ疎開させておいた品物は、荷造の数にして五箇だった。
原民喜の他の作品
TRENDIA CLASSIC
絵にそへて
原民喜
絵にそへて
原民喜 ・ 約2分
TRENDIA CLASSIC
渚
原民喜
渚
原民喜 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
青空の梯子
原民喜
青空の梯子
原民喜
TRENDIA CLASSIC
悪夢
原民喜
悪夢
原民喜
TRENDIA CLASSIC
アトモス
原民喜
アトモス
原民喜
TRENDIA CLASSIC
秋日記
原民喜
秋日記
原民喜
TRENDIA CLASSIC
ある時刻
原民喜
ある時刻
原民喜
TRENDIA CLASSIC
ある手紙
原民喜
ある手紙
原民喜
TRENDIA CLASSIC
飯田橋駅
原民喜
飯田橋駅
原民喜
TRENDIA CLASSIC
遺書
原民喜
遺書
原民喜
TRENDIA CLASSIC
淡雪
原民喜
淡雪
原民喜
TRENDIA CLASSIC
椅子と電車
原民喜
椅子と電車
原民喜