TORENDIA
ゆく雲
樋口一葉
TORENDIA
ゆく雲
本文約9,100字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
養家の家督相続を急かす迎い状を受け取り、故郷の甲斐へ帰ることを余儀なくされた野澤桂次。東京での自由な書生生活に未練を残しつつ、帰郷後の望まない縁談や親戚の干渉、そして東京に遺す思い人・お縫との切ない別れに思い悩む。本書は、家という重荷を背負う青年が、ままならぬ運命と義理の柵に翻弄されながら、遠く離れた地で変容していく心の軌跡を叙情的に描く。
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上
酒折の宮、山梨の岡、鹽山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小佛さゝ子の難處を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦高樓、躑躅が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺の櫻見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを消すこと左りとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覺えなき愁らさなり。