TRENDIA CLASSIC

時事雑感

寺田寅彦

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煙突男

ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物に来る人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。これに関する新聞記事はおりからの陸軍大演習のそれと相交錯して天下の耳目をそばだたせた。宗教も道徳も哲学も科学も法律もみんなただ茫然と口をあいてこの煙突の空の一個の人影をながめるのであった。

争議が解決して煙突男が再び地上におりた翌日の朝私はいつも行くある研究所へ行った。ちょうど若い軍人たちがおおぜいで見学に来ていたが、四階屋上の露台から下を見おろしている同僚の一群を下の連中が見上げながら大声で何かからかっている。「おうい、もう争議は解決したぞ、おりろおりろ」というのが聞こえた。その後ある大学の運動会では余興の作りものの中にやはりこの煙突男のおどけた人形が喝采を博した。

こうしてこの肺病の一労働青年は日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。

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