TRENDIA CLASSIC

物売りの声

寺田寅彦

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毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。

昔は「トーフイ」と呼び歩いた、あの呼び声がいったいいつごろから聞かれなくなったかどうも思い出せない。すべての「ほろび行くもの」と同じように、いつなくなったともわからないようにいつのまにかなくなり忘れられ、そうして、なくなり忘れられたことを思い出す人さえも少なくなりなくなって行くのであろう。

納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。

「豆やふきまめー」も振鈴の音ばかりになった。このごろはその鈴の音もめったに聞かれないようである。ひところはやった玄米パン売りの、メガフォーンを通して妙にぼやけた、聞くだけで咽喉の詰まるような、食欲を吹き飛ばすようなあのバナールな呼び声も、これは幸いにさっぱり聞かなくなってしまった。

つい二三年前までは毎年初夏になるとあの感傷的な苗売りの声を聞いたような気がする。「ナスービノーナエヤーア、キュウリノーナエヤ、トオーガン、トオーナス、トオーモローコシノーナエ」という、長くゆるやかに引き延ばしたアダジオの節回しを聞いていると、眠いようなうら悲しいようなやるせのないような、しかしまた日本の初夏の自然に特有なあらゆる美しさの夢の世界を眼前に浮かばせるような気のするものであった。

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