午後
本文約6,300字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
クリシイの通りの宿で暮らす夫婦は、会話のない日常の中で互いに苛立ちや愛情を募らせる。夫は読書に没頭し、妻は異国での生活に孤独を感じながらも、窓から庭の様子を眺め、階下の住人たちを観察して気を紛らわす。やがて知人の河合が訪れ、場にささやかな変化が訪れる中、宿のおかみであるブランシュが帽子を売りに来る。妻は帽子を試して一時心躍らせるが、日常の閉塞感と夫婦の微妙な距離感は変わらずに漂い続ける。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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二人は先刻クリシイの通で中食して帰つて来てからまだ一言も言葉を交さない。女は暖炉の上の棚の心覚えのある雑誌の下から郵船会社の発船日表を出した。さうして長椅子にべたりと腰を下して、手先だけを忙しさうに動して日表を拡げた。何時の昔から暗記して知り切つたものを、もとから本気で読まうなどと思つて居るのではない。男の注意をそれへ引いて、それから云ひ掛りをつけて喧嘩が初めたいのであつた。喧嘩と云つても勝つに決つた喧嘩で、その後で泣く、ヒステリイを起す、男をおろおろさせる、思つて見ればそれも度々しては面白くもない事に違ひないのである、もう飽きてしまつた慰み事に過ぎないのであるが、じつとして居て故郷恋しさに頭を暗くされ続けにさせられて居るよりはほんの少しばかり増しだと思ふのであらう。寝台の足の方に附けて置いた机に倚つて居る男に聞える程の
『あ、あ。』
と云ふ吐息を女はした。
『どうしたの。』
男は顔を妻に向けた。
『あ、あ。』
今度は甘えたやうな吐息が女の口から出て、そして媚びる目附で男を見た。帰りたければ帰れば好いぢやないかと一寸強く威された時、一先づ負けて出る何時ものそれが、間違つて一足先きに出たのだと女は自身の様子に気がついた。
『淋しいのね。』
『ふむ。』
と云つたまま男はまた書物の上に目を落した。
『煙草を頂戴。』
『さあ。』
男は藤色のルバンの箱を左の手で持つて出した。
『厭、火を附けてよ。』
舌打ちをしながらルバンを一本出して口に銜へて、手元にあつた燐寸の大箱から正臙脂色のじくに黄な薬が附けてある花の蘂のやうな燐寸を一本出して擦つた。女は黙つて見て居る。火を附けた煙草を男は無意識に其儘飲んでまた本に読入つた。女はそつと立つてルバンの箱と燐寸とを盗むやうに長椅子の上に取つて来た。
『上げやう。』
気の附いた男が煙草を口から取つて見せるのを
『いいのよ。』
首を振つて女は見せた。
『失敬した。』
『あんなことを云つて、いいんですよ。』
『おまへ昨日あたりからおとなしくなつたね。』
と云つて男は本を下向けた。
『さう。』
女の目には涙がいつぱい溜つた。
『おまへがさうして居ると日本に居た時の夫婦のやうな気がするよ。』