TRENDIA CLASSIC

愛と認識との出発

倉田百三

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この書を後れて来たる青年に贈る

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兄弟よ、われなんじらに新しき誡を書き贈るにあらず。すなわち始めよりなんじらのもてる旧き誡なり。この旧き誡は始めよりなんじらが聞きしところの道なり。されどわれがなんじらに書き贈るところはまた新しき誡なり。

――ヨハネ第一書第二章より――

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版を改むるに際して

この書は発行以来あまねく、人生と真理とを愛する青年層の人々に読まれて、数多くの版を重ね、今もなおあわただしい世相の動きにも、自己本然の真実の姿を失うまいとする、心深く、清き若き人々の間に読まれつづけている。

私はその生命の春に目ざめて、人生の探究に出発したる首途にある青年たちにはこの書がまさしく、示唆に富める手引きとなり得るであろうことを今も信じている。私が恃みを持つのは思想的内容そのものよりも人生に対する態度である。いかなる態度をもって生きゆくべきか、その誠と力とラディカルな自由性とは今の青年たちに感染してけっして間違いないであろう。この書はたとい思想的に未熟と誤謬とを含んでいる場合にも、純一ならぬ軽雑な何ものをもインフェクトせぬであろう。私は反語とか諷刺とかの片鱗をもって論述を味わいつける、大家にも普通なレトリックさえけっして用いなかったのである。徹頭徹尾純一にして無雑な態度を守り得たことはこの書が若き人々に広く読まれるに際しての私のひとつの安心である。小さく賢く、浅く鋭く、ほどよく世事なれる今日の悪弊から青年たちを防ぐのに役立つでもあろう。

この書にはいわゆる唯物論的な思想は無い。一般的にいって、社会性に対する考察が不足している。しかし生命に目ざめたる者はまず自己の享けたるいのちの宇宙的意義に驚くことから始めねばならぬ。認識と愛と共存者への連関とはそこに源を発するときにのみ不落の根基を持ち得るのである。社会共同態の観念もわれと汝と彼とをひとつの全体として、生を与うる絶対に帰一せしむる基礎なくしては支えがたい。社会科学の前に生命の形而上学がなくてはならぬ。

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