摩周湖紀行
本文約8,800字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
瀧川から根室本線に入った著者は、荒涼とした北の大地を一人旅する。釧路では石川啄木ゆかりの宿に滞在し、地元の人々と交流を重ねながら各地の湖を巡る。旅の記録を綴り、平野と湖沼の風景の中で心身を癒やしつつ、帯広を経て然別湖へと向かう。見知らぬ土地で出会う人々の温かさや、移り変わる季節と厳しい自然の表情を描き出し、あてのない一人旅の情緒とそこで得られる生の愉しみを浮き彫りにする。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
宗谷本線の瀧川と云ふ古い驛に降りた。黄昏で、しかも初めての土地で一人の知人もなかつた。隨分と用意深かく、行く先々の樣子は、旅行案内で調らべておくのだけれども、途中で氣が變つてしまつて、根室本線へ這入つてみたくなり、乘りかへ驛の瀧川と云ふ處に、周章てゝ降りてしまつた。ホームを歩きながら私は驛夫をつかまへて、此町ではどのやうな宿屋がよいかと云ふことを聞かなければならない。樺太以降東京まで直行のつもりでゐたので、最早私の懷もとぼしい。
町は寒かつた。毛織のスーツが結構間にあつた。
此町では三浦華園と云ふのがいゝだらうと驛夫に聞いた。荷物を三浦華園の宿引きに頼んで、私は暮れそめた瀧川の町を歩いて宿へ行つた。官吏とか商人とかゞ、足だまりに寄つて行きさうな小さい町である。宿へ着くと私は頭の先きから足元まで出迎へた女達に見られなければならない。
女で、しかも一人旅は不思議なことなのであらう。風呂に這入り夕食の膳を前にしたけれど、何としても佗しく、一合の酒を頼んだ。酒は二杯ばかりを唇にすると、最早胸につかへて苦しく、床をとらして眠つたが、床へ這入つたで急に眼がさえて來て眠れなかつた。
黄昏に降りた不用意な旅人のために、根室へ行く汽車もなくて、ふかくにも私は瀧川で一泊しなければならなくなつたのだけれど、これも仕方ない。枕元の水差しの盆の上には、此一夜泊りの客の爲に、小さい列車時間表が置いてあつた。裏をめくると、明治三十八年出版運命よりとして國木田獨歩の一章が書いてある。
――「何處までお出ですか」突然一人の男が余に聲を掛けた「空知太まで行くつもりです」
「さうですか、それでは空知太にお出になつたら、三浦屋と云ふ旅人宿に泊つて御覽なさい」――
獨歩が此三浦屋に泊つたのかどうかは判らないけれども、愛なく情なく見るもの荒凉寂寞たると嘆じた獨歩の一人旅を偶々面白く思つた。私も御同樣だ。明治三十八年と云へば私の生れたときだ。まだその頃の空知の國はもつと未開の地であつたに違ひない。