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TORENDIA

瑪瑙盤

本文約12,000字 ・ 読了時間 約24分

あらすじ(AIが作成しました)

パリで絵画制作に励む寒子は、かつて東洋の男との思い出を語り、しのび泣きを繰り返す南仏出身の女ミツシヱルと交流する。寒子はパリの白暮や屋根裏部屋の生活を通じ、モデルや党員ロロら異国の孤独な人々と関わりを持つ。やがて寒子は、ミツシヱルの部屋から漂う異臭を察知し、閉ざされた扉の先で、かつて賑やかだった生活の果てに二人で静まり返るミツシヱルたちの姿を目の当たりにする。寒子は街で花を求め、すべては孤独な営みであると静かに心に刻む。

林芙美子

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1 ミツシヱルは魚ばかり食べたがる女であつた。

魚屋の前を通ると、牡蛎籠の上に一列に並んでゐるレモンの粒々に、鼻をクンクンさせたり鮫の白い切り口を、何時までも指で押してみたりしては買へもせぬ癖に、何か口の中でブツブツものをいひながら、立ちつくしてゐることがあつた。

ミツシヱルは南フランスの生れで、髪は南国風に黒つぽい色をしてゐる。

「小さいお嬢さん! 私しのびなき」

寒子のアパルトへ来ると、かうして泣いて見せるのが、ミツシヱルの得意である。

「又、しのび泣きなの、困るわね」

ミツシヱルは、寒子の描きかけてゐる画架に凭れると、暫時は、しのびなきの話に耽ける。

「貴女はムッシュウ河下に手紙を出しますか、みつちやんしのびなきと云つて下さいね」

ミツシヱルのいふしのびなきの唄は、さだめし、此の河下の残した憶ひ出なのであらう。時々思ひ出したやうに、ミツシヱルは、河下の話をしては唄をうたふ。

雨は降る降る

じやうが島の磯に

りきやう鼠の雨が降る

雨は真珠か

夜明けの霧か

それとも妾のしのびなき

片言混りな唄ひ振りではあつたが、切々たるミツシヱルの声は、どうかすると、寒子の郷愁をあふりたてた。

「もう止めてよ、仕事の邪魔しちやア駄目ぢやないの‥‥」

すると、唄を止めたミツシヱルは、部屋隅の寝台にひつくり返つて、

「ムッシュウ河下は、そりやアとても魚をよく食べる男だつたんですよ、鯛を買つて来ると、波のやうな型に切つて生のまゝで食べたり、日本ソースで赤く煮たりして、私に御馳走してくれたのですよ」

ミツシヱルが、真面目に、別れた東洋の男の話をすると、寒子もつひほろりとなつて問ひかけて行つた。

「その河下つて‥‥日本の何処のひとなのさ」

「河下さん、神戸でホテルをしてゐるんですつて、――もう大きい奥さんもあります。私大変悲しい」

国情の違つたこの女の言葉が、何処まで本心なのか、まだ日の浅い巴里住ひの寒子にはよく呑み込めなかつたが、来る度に河下のしのびなきの話をするところを見ると、よほど心に残つた男であるらしかつた。

2 窓を開けておく日が多くなつた。

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