接吻
本文約7,400字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
維也納に留学中の著者が、街頭や郊外の山中で偶然目撃した男女の接吻という光景を軸に、自身の感傷的な心境や日常の断片を綴る。また、古代から現代に至るまでの「接吻」という行為に対する日本人の認識や言語表現の変遷を考察し、伝統的な「口吸ひ」という語と明治以降の翻訳語としての「接吻」や「口づけ」を比較検討しつつ、その文化的な意味合いや言葉の受容について論じる。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
維也納の Grtel 街は、ドナウ運河の近くの、フランツ・ヨゼフ停車場の傍から起つて、南方に向つて帯のやうに通つてゐる大街である。そこには、質素な装をした寂しい女が男を待つてゐたりした。金づかひの荒くない日本の留学生は、をりふし秘かにさういふ女と立話をすることもあつた。
西暦一九二二年の或る夏の夕に、僕はささやかな食店で一人夕食を済した。そして、いつしか一人で Grtel 街を歩いてゐた。僕はステツキも持たずに、かうべを俯して歩いてゐる。街道が大きいので、人どほりがさう繁くないやうに思はれる。平坦な街道がいつの間にか少し低くなつて、そこを暫く歩いてゐる。
太陽が落ちてしまつても、夕映がある。残紅がある。余光がある。薄明がある。独逸語には、Abendrte があり、ゆふべの Dmmerung があつて、ゲーテでもニイチエあたりでも、実に気持よく使つてゐる。これを日本語に移す場合に、やまと言葉などにいいのが無いだらうか。そして、夕あかり。うすあかり。なごりのひかり。消のこるひかりなど、いろいろ頭のなかで並べたことなどもあつた。欧羅巴の夏の夕の余光はいつまでも残つてゐた。
僕は少し感傷的な気分になつて、ゆふべの余光のなかを歩いてゐる。さうすると、いそがしい写象が意識面をかすめて通る。いまやつてゐる僕の脳髄病理の為事も、前途まだまだ遠いやうな気がする。まだ序論にも這入らないやうな気がする。きのふの午後に見た本屋の蔵庫にあるあの心理の雑誌は、いくばくに値切るべきであらうか。あの続きを揃へようとせばライプチヒに註文して貰へばいい、日本にゐる童子は、学校でも遊び友だちは殆どないといふ妻からの便りがあつた。が、己に似たのかも知れん。云々である。写象は起つて忽ち過ぎ去つた。実は千万無量の写象である。